石橋を叩いても渡らないかも?: 社会

2007年01月19日

タダのありがたさを振り返ってみよう。

きょうも外出前の駆け込み記事なのですみません。

以前記事に書いた広島郵便貯金ホールの存続問題なのですが、結局、県が買い取ると言うことで決着。県民にとって大切な文化の灯火が消えることを食い止めることが出来ましたが、では毎年続く赤字はどうするのかということで、初の県民債を発行することになりました。

一口一万円なのですが、大変良いアイデアだと思います。利殖としてはこの低金利の時代、何の魅力もありませんが、文化を愛する人たちにとって、自分たちの施設は自分たちで守るという自覚ができる効果があります。

また、いつもの例え話に飛びますが、カルチャー教室や、スポーツジムで高い受講料を払ってまで何故、人々は通うのでしょうか。もちろん、自宅では得られない高い知識や、ハイレベルのマシーンを使えるというメリットはありますが、それ以上に月謝を払っているから利用しないと勿体ないという気持ちが、より通う気持ちに拍車をかけるのでしょう。

とかく、タダならなんでもいいという風潮がありますが、タダほど高いものはないことも現実ですし、またなにかに取り組むことや学ぶときにタダだと有り難みが薄れてしまい、やめるのも簡単という弊害があります。

長い前振りになりましたが、わたしが言いたかったのは、ちまたにあふれる情報や文化はタダでも得られる恵まれた環境にいまの日本はありますが、それが人々の気持ちに、本来得られることのありがたさを忘れさせてしまっているのではないかと言うことです。

ここで、おもいっきり話は飛びます。
民放マスメディア情報もタダです。例年、行われる地方選挙や国政選挙もタダです。
でも、それらを受け止める市民の側の慎重な選択と運用は、タダであるが故に有効に生かされていないと思います。
最初に書いたように自分たちの施設なんだと言う気持ちで文化に一口参加する意識と同様、もっと色々なこと(政治)に関心を持って取り組むことを望みます。

だって、それらはすべてわたしたちの生活に跳ね返ってくることなのですから。

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2006年12月04日

わたしが1日の記事(わたしの)を削除したわけ

12月に入ってめっきり寒くなってしまいました。めったに風邪を引かないわたしもとうとう引いてしまい、ダウンしています。

先日、12月1日に記事をアップしたのですが、あとになって読み返してみるに、記事として至らぬ点が多すぎるので、思い切って削除しました。そのとき取り上げた話題は「広島ドッグパーク」のことについてだったのですが、同じ日にアップされた「きっこのブログ」の記事に触発されて、深く考えぬまま自分の見解を書いてしまいました。

マイブログといえ、いつも訪問してくださる方たちに、しっかりと確証を持たぬまま書いた記事を読んで頂くことは、本来のわたしの趣旨に反します。基本的には体験に基づいた記事を書くことを目標とし目指していますから、それが例えメジャーなブログに触発されたことだったとはいえ、短時間に結論めいた記事を書いたことを反省しております。

「きっこのブログ」も当初から確信的なコメントは控えていました。、第二弾、三弾と記事を重ねることによって読者に事の重大さを提示しておりました。風邪のおかげ?でじっくりとこの件を検証するための時間を得たわたしは、改めて「広島ドッグパーク」に関わる記事やコメントに、出来る限り目を通しました。

そこに見えてきたことは、思ったより複雑で難解な事件だったということです。現地に行けないことや当事者に会えない代わりに、多くの方のブログやニュースを拝見することで少し事実が見えてきたことです。それはだれが悪者と決めつける以前にボランティア活動の難しさや、その受け止め方が多様だという事実です。

ずっと前に「武装解除」(伊勢崎賢治著)の本の紹介をしたことがありました。国際紛争の地に乗り込んで平和的解決と復興を目的としたNPO活動で活躍、体験された方の著書だったのですが、規模こそ違え今回の「広島ドッグパーク」に通じるものがあります。

今回は事件として取り上げられ、世論を巻き起こし、大勢の人たちの声を後ろ盾に事を解決するのですが、その世論さえも、その多くは、軽く考えている人、反対に深刻に考えすぎる人、他に責任を求めて声を上げる人、その他さまざまなのです。

そして実際に行動を起こすとなると、ボランティア経験の不足からくる現実とのギャップ、その中での意思統一、そして個々の理解度の違いや予定通り進まぬ救援作業とそれに伴う疲労。いらだち。

ニュースの受け売りから発生した単純な正義感は、純粋が故にさまざまな軋轢を生み出します。

今回の件に関してわたしの結論はこうです。400頭以上のワンちゃんが救われたことは事実です。大勢の国民が同情と関心を持ったことも事実です。そのきっかけをつくったのがアークエンジェルだったのも事実です。

上に述べた事実と、今起きている疑惑とを混同して議論する世論に危惧します。
仮に不純な動機を持って始まった救犬活動だったとしたら、それはそれで責任追及するなり、別の問題として解決すれば良いと思います。もしそうでなかったときの傷の深さや反動の怖さも感じます。

今回の件はわたし自身に、たくさんの教訓を与えてくれました。内容こそ違え、政治ブロガーたちが目指している目標への道のりは、同じような問題と困難を抱えていると思います。それらを深く洞察して進まないと、形ある成果を生み出さないと思います。

「広島ドッグパーク」で救い出されたワンちゃんたちは事実であり、そうでなければならない国民の姿でもあるわけですから。

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posted by ゲゲゲのイチロー at 16:44 | Comment(0) | TrackBack(4) | 社会

2006年11月12日

戦後の昭和から平成のきょうまで

本当は絵画の道に進みたかったのに、うちの経済状態では大学進学もままならず、のちに社会人になってからもしばらくは趣味で続けるしかなかった。

そうはいっても瀬戸内の小さな一地方都市に若い私たちにとってこれといったサークルもなく、それがいつのまにか夢を持った者たちが互いの共通点もないのに集い、やがて小さな群れとなった。それはバイク仲間であったり、音楽や絵画を目指す卵たちだったのに。今にして思えばその不思議なつながりは「若者」という立場が互いに共通するキーワードだったのだと思う。

集えば熱く語ったし、拙い知識や情報も自分たちにはとても貴重なものだった。同じ頃、進学した友は大学紛争の渦に巻き込まれ、石を投げ合っていたことなどその時は知るよしもなかった。同じ時代を同じ時間に生きているのにそれはわたしにとって遠い世界の話だった。

やがて上京し、プレスという道を選んだばかりに、好むと好まざるとに関わらず、社会に目を向けて生きていくことが生活手段となった。それも冷ややかな目で。親の庇護のもとで革命を叫んでいるヘルメット姿の昔の同級生たち。カメラのファインダーに写る彼らの姿はわたしにとってただの群れ(被写体)でしかなかった。

あれから何十年、皆、何ごともなかったように、ある者は役所に、ある者は教師となり、同じように歳を重ねて生きている。その禿げ上がった後頭部と年老いた後ろ姿を見るにつけ、あれも遠い幻だったのかと時の流れは全てを記憶の片隅に追いやる。

様々な彩りを織りなす過去の日本の歩みも、わたしの屈折した心のプリズムには一筋の無色の光でしかない。
きょうのことも何十年か後に色がついて見えるのだろうか。

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posted by ゲゲゲのイチロー at 01:15 | Comment(1) | TrackBack(3) | 社会

2006年10月27日

ひとの考えは変わるもの

なんか周りのみんながいうのには、始めて会ったときの第一印象は、寡黙で近寄りがたい人だと思ったと笑いながらいうのです。(それって、ただ単に人相が悪いって言うことじゃないの。傷つく〜う)

子どもの時は引っ込み思案でおとなしい子だったんですが(今でもそうだと自分では思っていますが)、長く人間やっていると色んな事を経験し、色んな人との出会いが気がつかないうちに自分を変えていきました。いまでは社内一、おしゃべり人間だそうです(周りの評価)。

仕事は辛いこともあるけど楽しくやってます。それをわざわざ周りに言うので「うらやましいですね」と声をかけていただきます。帰ってからその話をすると「社交辞令ですよ」となかば呆れた顔で後輩に言われています。でも本当に人とお話をするのが好きなんです。話す相手は小さな子どもからおじいちゃんおばあちゃんに至るまで。

omai.gif先日、わたしが好んで拝見するブログの記事で、インターネット新聞の市民記者になって記事を掲載してみたら批判コメントばかりきて嫌になったと書かれてあるのを見て、おせっかいながらもその関連記事のコメントを見てみました。ドハズレの批判コメントもありましたけれど、多くは批判というよりも記事を見ての意見のコメントでした。

ただブログと違うところは実名掲載で、アップした記事に対してのコメントは賛否にかかわらず、全て掲載すると言う点です。気に入らないからと削除はできません。いままで書きたい放題のマイブログで褒め言葉に囲まれた環境にいた人にとって、自分の記事が意見されるのはショックだったかも知れません。

後日、そのかたは再度掲載した記事で、インターネット新聞の現在の掲載方法の見直しを提案されていました。その記事に対して寄せられたコメントは前にもまして、より厳しく批判したコメントが大半でした。数も前回よりは数倍に及んでいました。ここではとても怖くて書けませんが、あまりにも図星な意見もあって読みながら笑ってしまいました。

でも中には、ただ言われっぱなしでいるのではなく、提案という形で反論したことに驚きながらもその筆者の反骨精神を高く評価しているコメントもありました。わたしもその点はおおいに評価したいとおもいます。双方が相手に対して意見を切り捨てたりすることは、みずからコミュニケーションの場を閉ざすことになります。そのためには人の意見にも耳を傾けるということです。

ブログはいいんです。どんな事を言っても。コメント削除も自由自在です。だって楽しみながらやっているのですから。

でも、真剣にブログでどこまでコミュニケーションの輪を拡げていくことが可能か、外部へのブログの輪を拡げていこうと可能性の限界にチャレンジされているかたもおられます。人それぞれです。新たな境地に挑んでいくことはやがて人々に理解を得ます。そして感動させます。あの新庄選手のように。

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posted by ゲゲゲのイチロー at 22:01 | Comment(2) | TrackBack(5) | 社会

2006年10月24日

リラックスモード


danshi.gif
←左の写真をクリック
いつも固い事ばかり書いているので、リラックスする意味で、談志さんの世相講談なんかどうですか。
たまたま、きょう更新してあったので、ちょっと覗いてみました。

いつも政治ブロガーのお客さんが多いので、まるっきり違うカテゴリーって訳にもいかず、まあ床屋談義風のところがいいんじゃないんですか。

この間、15日のマイブログに書いた「やわらか戦車」も、いま、ちょっとした話題になってて、国営放送も取り上げたそうです。

自分たちのイデオロギーも大切だけれど、庶民の気持ちからかけ離れてしまったら、いわゆる”民意のわからない運動家”になってしまいますよ。

リラックス、リラックス!

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posted by ゲゲゲのイチロー at 18:33 | Comment(0) | TrackBack(2) | 社会

2006年10月19日

無題(1)

二日前から歯が痛み出してたまらない。だいの歯医者嫌いだから往生際悪くて自宅で七転八倒しています。会社に休むと言ってありますが、日ごろからオオカミ少年状態だから社の連中は誰も信じていないでしょう。

jiginaki.gif17日の喜八ログさんの政治家の世襲を読んでて、本当だな〜と変に感心したのはヤクザの世界は世襲はないのが普通なのです。こどもがいても、むしろ継がさないのが親心で、それだけ後ろめたい稼業で自分の子だけは真っ当な道を歩ませたいようです(一部、例外もありますが)。

本題から外れてしまいましたが、世襲が取りざたされて気がついたのは、政治家、公務員、ジャーナリスト、芸能人が意外と多いということです。職業によっては世襲が悪と決めつけるにはあまりにも短絡過ぎますが、それでも世襲が多い。我が子が同じ道を進むことに抵抗がないのは、それなりのやりがい(or  旨味?)があるということでしょうか。

わたし自身、「カエルの子はカエル」ということを否定する理由はありません。ただそれが人の上に立つ職業だったりしたときに、親の職業を踏襲する子にそれだけの自覚があるかどうかということです。単に居心地がよさそうだとか、待遇がいいからとか、親の七光りが使えるからとか、その程度の理由でなっている人たちを、大勢知っています。

アメリカ社会ではコネも才能の内というお国柄ですから、むしろ積極的にロビー活動することは公然化していますが、日本と違うところは世襲であれ、コネであれ仕事につくチャンスにはなっても、それに伴った実力がないとあっというまに、抹殺されてしまうところです(それも最近は日本同様、能力のない世襲の二代目継承者が、ちょっとした社会問題になっていますが)。

また本題から外れそうです。なにせ歯の痛い頬を押さえながらの執筆ですから(いい訳)。

まあ、いずれにしても、それが政治家だったり、学校の先生だったり、新聞社の社員だったりするわけで、端で見るこちらの目からみれば、なにやっているんだろ・・・と軽蔑しかねない人たちを大勢見てきました。

きょうは話をまとめる集中力がないのでやめますが、ひと言でいえばもっとそれぞれの立場での「プロフェッショナル」であれということです。

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posted by ゲゲゲのイチロー at 21:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会

2006年08月18日

大衆のこころは

わたしのオヤジが生きているころによく言っていた言葉に「戦争は必要だ。破壊がなければ大きな需要は生まれない」。明治生まれの貧農の小せがれだったオヤジにたいした学もなく、そんなことを口走っていたのは何故なんだろう。どうせ何かの受け売りかもしれないが、亡くなった今となっては、その考えがどこから出てきたのか知るすべもない。

parade-1.gifだが、戦後60年も経った今現在、世界で起こっている破壊(戦争)は常に正義という大義名分のもとで勃発し、それらがみな戦いの終わった後、罹災国の復興支援という美しい言葉で飾られたその裏で、ハイエナ共の絶好の餌場になっている現実をみれば、あながち無学のオヤジのあの言葉も嘘だったとは言えない。

オヤジの言葉を借りれば「大東亜戦争(太平洋戦争)はもっと早い時期にアメリカ本土を叩くべきだった。そうすればアメリカは戦意喪失して、早い時期に停戦に持ち込めたのに。ソ連は不可侵条約を結んでいたからあの時点では交戦してくる可能性はなかったのに」
当時の日本の戦闘能力や輸送能力を考えれば、どだい無茶な床屋談義なのだが、過去に自国が戦場になった経験のない両国双方の素朴な国民感情だったかもしれない。

でも、いまでも戦争をやりたがっている国の国民感情が過去の戦争を教訓とせず、その国の(戦争好きの)為政者に絶大なる支持の声をあげるのは、やはり自分の頭の上に爆弾が落ちてこないからかもしれない(戦争を知らない世代が大多数になっている日本も同様)。

大衆はおろかだ。いつの時代も愛と名誉のために進んで自分の身を投げ出すのに、それによって得られるのは、小さな墓の下に入る道をたどるか、生き延びても、お上発行の名誉だけ。でも多くの庶民はそれが生きていく上のささやかな誇りなのかもしれない。

八月十五日の靖国神社は例年になく大勢の人出だった。それに関してどうこう言う意見は、わたし自身は持たない。ただ終戦のこの日を過去を振り返る記念日とするならば、これから生き続けるわたしたちは、何が幸せの道なのか、ひとりひとりが考える日でもあるのだ。

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posted by ゲゲゲのイチロー at 12:58 | Comment(0) | TrackBack(2) | 社会

2006年08月11日

子どもの視線から(裸の王様は誰だ)

sennsou.gif先日、予約していた(予約はかなりずらしていたつもりなんだけど)4冊同時に到着して、とりあえずは一番読みやすい本から。

「戦争のつくりかた」著者名 りぼん・ぷろじぇくと 発行所 マガジンハウス
わずか50ページにも満たない小さな本です。
初版は2004年7月です。
第二次湾岸戦争の翌年です。

子どもたちにもわかるように挿絵入りで書いてあります。
ページ下には英訳も書かれてあります。

予告ともいえるこの本の発行された後の今現在、憲法改正以外、書かれてあるほとんどの法案が、国民のさほど関心を呼ばないうちに国会を通過し法制化されていきました。もしこれが単なる予告の絵本でないとしたら、日本は最後の文25ページに向かっていくのでしょう。

後半、黄色いページにはこの絵本は大勢の人たちが集まって作っていったいきさつが書いてあります。
そして書かれてあることがどんなに身近に起こっていることなのか、国は少しづつ、みんなに意識されないうちに法律を変えていっています。その怖さを絵本は語っています。
いままで日本がかかわった過去の戦争も、いきなり始まったのではありません。
国民の生活の中にしみ込むように静かに、いつのまにか導かれるのです。だから怖いのです。

黄色いページ最後のところに本の内容と実際に関連のある法律や条文などが掲載されています。子どものための絵本ということだけではなくわたしたち大人のための絵本でもあるわけです。
機会があれば一度、目を通すことをお勧めします。         

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posted by ゲゲゲのイチロー at 23:58 | Comment(0) | TrackBack(1) | 社会

現代若者考

歳をとると四、五年、いや十年ぐらい前のことでもつい、昨日のことのように語ってしまうことがある。
今まで生きてきた長さからいえば当然かもしれないが、若い人からみれば十年前の話なんて大昔の話を聞かされている思いだろう。
だから若い人にとっての一年、二年は目まぐるしく変わる世の中で自分たちの貴重な過去であり、それが年寄りの十年に匹敵するのだと思う。

若い人たちの過去は、年寄りにとって過去とは言えない今のことであり、本当の過去を知らない若い人たちの未来は年寄りたちにとって一抹の不安を抱かせる。それはこれから向かう未来は、あなたたち自身の手で切り開いていかなければならないからだ。若さもある、勢いもある、がむしゃらに進む勇気もある。だからちょっと足を停めて、いや停めなくていい。歩みながらでもいい。話を聞いて欲しい。

わたしたちが語る十年は、あなたたちなら一年で習得できる。人生の先輩として生きて来て、決して納得の出来る生き方だったとはいえない。だからこそ伝えておきたいのだ。よかったことも悪かったことも・

刹那的に生きるな。未来に悲観するな。嘆く前に自分のみちは自分で切り開け。
あなたたちが望むなら、喜んで山道を背負われもしよう。帰り道は迷わないように小枝を折ってやるぐらいの親心は失っていない。
だって可愛い、わたしたちの子どもの未来への道だから。

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posted by ゲゲゲのイチロー at 21:27 | Comment(1) | TrackBack(2) | 社会

2006年08月06日

61年目の広島にて

毎年、8月6日になると日本中の平和運動家が広島に集って式典に参加する。今年の式典参加者は4万5千人、それが多いのか少ないのか広島の街は被爆都市として,それにかかわる人たちで行事一色となる。

明日になると昨日のことがまるで嘘のように街は静けさを取り戻し、人々は職場へと道を急ぐ。8.6.gif

 今朝の平和記念式典の各テレビの対応を見てみた。
NHKは全国同じ、午前8時から35分間、式典中継。
RCC(毎日系)、午前8時から30分間、式典中継。
ホーム(朝日系)午前7時59分から31分間、式典中継。
TSS(フジ系)午前7時59分から56分間、式典中継。
HTV(日テレ系)7時59分から61分間、式典中継。
多少の時間差はあっても地元故、ほとんど横並び。ただHTVだけは、この日の大半を原爆特集番組に時間を割いて他局に抜きんでていた。

 次に全国では、その頃何を放送していたか。まず東京から。
日テレ(読売系)午前8時からのワイド番組「THEテレビ」
TBS(毎日系)午前8時からのワイド番組「サンデーモーニング」
フジ(産経系)午前7時30分からワイド番組「報道2001」
テレ朝(朝日系)午前8時から「仮面ライダー」
テレビ東京 午前8時から「ポケモンサンデー」
大阪、福岡も同じだった。

 今日は日曜日ということもあって、いつもの放送スケジュールと違い、一概に例年と比較出来ないが、61年も経つと盛り上がっているのは地元だけという(各地で参加されている方ごめんなさい)、これが平和運動の現状でもありマスコミの対応なのだ。唯、リベラルと見られている朝日系列がこの時間に「仮面ライダー」とはおそれいった。しょせんテレビは視聴率オンリーなのか。他の民放キー局も報道ワイド番組と銘打っていても、内容は視聴者の関心を引く話題満載で、地味な平和運動なんかこの程度の扱いだろう。

 わたしが携わっていた70年代から80年にかけては世の中をもっと真剣に直視していたし、各マスメディアも条件の悪い中を使命を持って伝えていたのに、飽食の時代によってサラリーマン化してしまったのか。

 これはだれも責められない。わたしを含め日本中の人々がバブルに浮かれて、いまだに過去の幻想を夢見ている。平和は快楽や飽食ではない。地みちに堅実に積み上げていかなければならないものなのだ。

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posted by ゲゲゲのイチロー at 22:15 | Comment(4) | TrackBack(25) | 社会

2006年08月04日

羊の群れのように

言葉ととか、その他いろんな手段を使って人は自分の気持ちを伝えていくのだけど、それがうまく伝わらない。それは表現能力の未熟さが大きく影響していると思う。言い換えれば、いままで日本人はそういう環境におかれていなかったことにすべての原因があると思う。

hituji.gif近代日本になって、全国津々浦々まで義務教育という国策として始まっった歴史ではあっても、そのおかげで世界の何処よりも文盲率の低さは誇れたし、日常生活に支障がない程度の知識や計算能力は皆身につけていった。しかし、それは国家として先進国に追いつくための国策でもあったし、生産性をあげるための教育、国家に忠実性を求めるための教育でもあったはずだ。戦後、占領軍によって根本から見直しを求められて新しい日本を再構築するための教育に改められたけれども、それが正の部分と負の部分をひこずって今日まで来ている。

近年において明治維新、第二次世界大戦敗戦という二度にわたって国家としての変革を求められる歴史的岐路があった。それらが後の文明の躍進に大きく影響したことは認めるが、それに伴って歩み続けなければならないはずの過去の文化を、いずれもそれを放棄している。いや否定している。いとも簡単に。

舶来信奉の国民性は良く言えば従順。政治家も評論家も。最近聞かなくなったが評論家の二言目には「欧米では・・・」と例え話を引き合いに出す。何でも欧米が正しいのか、己独自の考えはないのか。いさぎよいのか、馬鹿なのか。古き価値観を捨てる勇気があるのなら、いや新しい価値観を受け入れる従順さがあるのなら、なぜもっと自分自身でものを考えることをしないのか。自分自身の意見をまとめることが出来ないのか。またそれをみんなに伝えられないのか。

わたしが仕事を通じて学校に出入りしていたときに、一番に感じられたのは、子どもたちの表現能力の乏しいことだった。まわりからはみ出さない。人と異なる考えを持たない。いや持たないのではなく、何も考えていないのだ。だから羊の群れのように先頭が右に曲がれば右に、左にゆけば左に行く。学校はカリキュラムどおり知識を伝授する場に徹している。異端児は認めない。異端教師もいない。いてはいけないのだ.

以前に書いた野外活動で、他のクラスとは違う生徒の自主性を尊重し、オリジナルのプログラムで活動しているクラスがあった。わたしにはその指導している教師に好感が持てた。生徒たちも生き生きしてた。数年経って、またその学校が担当になった。あのときの教師を捜した。みつからない、転勤したのか。やがて気がついた。大勢の教師の中に彼がいた。目立たない地味な存在で。あまりにもの変わりように声をかけてみた。「いや〜、したくても出来ないんですよ。上から注意がありました」照れ笑いしながら語ってくれた表情の中に、彼の挫折感を感じた。

いま日本は過去に経験をしたことのない国際社会の荒波の中に立たされています。それを乗り越えていく英知が求められています。それを担うのは、思考回路の硬直化した老為政者たちではなく、次世代のひとたちです。

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posted by ゲゲゲのイチロー at 18:50 | Comment(2) | TrackBack(3) | 社会

2006年08月03日

暗い未来は誰のもの

月も変わったし、新しいネタで何か書こうと思っていたのだけれど、31日夜書いた「偽装請負い」の記事が想像以上に反響が大きくて、わたしのようなマイナーなブログでほとんどリンク先もないのに2日間でアクセス数が2千件を超えてしまった。

人気ブログの方たちにとって「なあんだそんなこと」と笑われしまうかもしれないが、検索サイトから来ているケースも平日と比べると数倍も多くなっている。ブログの年齢別利用者の割合を考えると、いかに若年層がこの問題にたいして関心が高いか数字が物語っている。

takenaka-&koizumi.gifもともと、わたしの記事は二十年以上も前にわたしのまわりで起こったことを書いたので、いまの「偽装請負い」とは内容が違う。それでも当時はこの不公平な処遇に対して憤りを感じたし、今回もこのような形でまだ大企業が人を使っているのをみて若い人たちが将来に夢を描けなくなる気持ちがわかるような気がした。

マスコミや政府の上面だけの景気回復宣言は、一部の大企業だけの成果が、こういう隠された犠牲の上に成り立っていることを改めて思い知らされた。わたしの仕事の関係上、不特定多数の、それも幅広い年齢層のビジネスマンから「本当に景気は回復したのだろうか。実感がわかない」という疑問の声を聞くにつけ、今回のニュースは日本の所得格差が二極化している現実の深刻さを感じさせた。

新自由主義という舶来信奉の為政者が導いてくれた経済政策は、手本となるアメリカの富と貧困の道をたどっているだけかもしれない。老いていくわたしにとって貧しさは戦後のあの苦しさを振り返ればなんら苦痛ではないけれど、これから未来に生きていく若者になんと言って声をかけてやればよいのだろうか。

梅雨明けの残り雨の中で野党の宣伝カーの声だけが闇の街にうつろにこだました。

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posted by ゲゲゲのイチロー at 05:13 | Comment(0) | TrackBack(4) | 社会

2006年07月31日

キャノンの偽装請負一掃のニュースを見て

31日のAsahi.comのニュースでキャノンの偽装請負一掃のニュースが報じられた。
これは、何十年も前から大手生産メーカーが人件費削減のため用いた雇用対策で、いま社会問題化している正社員と派遣社員・パート社員の処遇格差が無視できない状況になって、その余波であぶりだされてきた日本の大企業の裏の顔である。わたしが知っている日本最大手のフィルムメーカー「F」も傘下におくグループ会社に長年、同様の雇用関係を従業員に強いてきた(現在はどうか知らない)。

まず偽装請負とはどういうものか、ご存じない方のために説明しておこう。

非正社員で採用した従業員に表向きは外部の取引業者として個々のの契約関係を結ぶ。給料は取引業者だから締めの日に自分の所属している部署にその都度、請求書を提出し会社はそれにたいしての支払いを行う。

gisouukeoi.gifここまでだと派遣社員と変わらないではないかと思われる方もいるかもしれないが、派遣社員はあくまでも派遣会社が親元であり派遣会社との雇用契約で社会保険等の身分の保障が守られている(労基法が順守されている)。ところが偽装請負の場合はメーカーと採用された個人の請負関係であり、おなじ仕事に携わっているにもかかわらず、外部の人として、就業規則は適用されず、社会保険、かかる経費はいっさいメーカーは責任を持たない。

偽装請負は製造メーカーばかりではないから、仮に営業部門の会社だと、営業に使う車両の購入費、維持費その他諸々にかかる経費はひとりひとりが負担しなければならない。それは月々の請求書で盛り込めるのだけれど、もともと経費節減のために行っている契約関係だから、請求金額の条件は一方的にメーカーが決めてしまう。搬送などの業務だと業者(偽装)に運ばせているわけだから当然グリーンの営業ナンバーでなければならないのに、社員であって社員でないという立場を悪用して白ナンバーで業務にあたらせる。表の顔はメーカーの社員として営業にあたらせ、問題が起きたときは請負業者として責任を回避する。

わたしが若いときに、知り合いから持ち込まれた偽装請負の問題を解決するために(正社員に準ずる待遇改善要求)あっちこっち奔走したのだが、まだ世間がそれを社会問題として受け入れる土壌がなく、若いわたしの力不足ということもあって、涙をのんだ記憶がある。そのとき交渉した社会党はそんな小さな票田にもならないモノ(わたしとしては結構な人数だと思ったのだが)など鼻にもかけられず、弱者の味方を唱える共産党も色々難癖をつけられて断わられた苦々しい思い出がある。しょせん彼らは大企業や官公庁の労働者の味方だと、つくづく思い知らされた。

(追加記事)今日、アップするにあたって他のブログ記事を参照すると、わたしのかかわったときより今のほうが事態は深刻化してるようだ。当時は契約を結ぶにあたって自分自身で確認し、ある程度の自覚もあったが、今は派遣とおぼしき会社から、本人も知らぬ間に請け負いとして送り込まれているという(搾取されている)。それはまさに人買い業ではないか。送り込む会社も受け入れるメーカーも非常に罪は深い。それを放置してた政府や政党は今頃になって何をいっているのだろうか。
腹立たしいのを通り越してしまった。

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posted by ゲゲゲのイチロー at 20:32 | Comment(6) | TrackBack(11) | 社会

2006年07月22日

TB返しのこころ

aikokusha.gif九日のわたしの記事にTBしていただいた喜八ログさんの紹介で「愛国者は信用できるか」(鈴木邦男著)がとりあげられていましたが、さっそく地元書店に予約注文して(図書館になかった)到着を待つことにした。
本の到着を待っている間、彼のホームページをみれば近況がわかるのではと飛んでみた(わたしはテレビはほとんど見ない。彼がテレビにゲストで出てるなんてホームページを見るまで知らなかった)。

「鈴木邦男をぶっとばせ!」この月並みなタイトルのページにたどり着いた第一印象。
いや〜。鈴木邦男も年をとったなあって言うのが彼の写真を見て一番さきに感じたこと。
一応、2カット目にモノクロでガンツキのきつい顔写真も載せてあったけれど、紅顔の美青年時代しか知らないわたしには、やや頭髪の薄くなったたるみ顔のカラー写真のほうがショックだった。

でも、もっと驚いたのは「邦男らしからぬ発言」の羅列には右翼でなくてもビックリ。
それに釣り込まれてどんどん読んでいくと、「わかる。わかる。」本の到着待たずして彼の言いたいこと、このホームページであらかた共鳴してしまった。

それは右とか左とかにかかわらず、いまの日本の現状を憂いている、われわれ同世代に共通する気持ちかもしれない。

あるひとにいわせば若いときのハシカともいえる学生運動が日本中を席巻してた時代は、真剣に国の将来を憂いて若者同士がぶつかりあったことは事実だし、それはいつの世も欺瞞社会への若者の抵抗のあかしでもあったのに、いまの現状はどうだ。
訳知り顔の、自称ネットウヨとかネットサヨとか言う連中が匿名性をいいことに言いたい放題アジって、やばくなったらバックレちゃう。小賢しい。
老獪なプロ(為政者)に唯一立ち向かえるのは若者ならではの感性のはずだったのに、いまの日本はみんな老齢化してしまっている。右も左も若者も意識も行動も・・・。
邦男氏は右に対しても手厳しい。それは誰よりも自分が右である姿勢と信条を貫きたい気持ちであり、後進に対して親心のあらわれともいえる。反対に位置するわたしとしてはその真摯な姿勢とそのこころを爪のアカを煎じて左の連中に飲ませたい思いだ。

後日、本は到着し読んで見たのだけれど、ホームページで感激し過ぎてしまったから、そのおさらいにしかならなかった。でもホームページで知り得ない彼の日本への、また日本人への思い入れのすごさは、本当の邦男氏を知らない人にとって、この本は必見かも。

邦男サイト鈴木邦男をぶっ飛ばせ!

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posted by ゲゲゲのイチロー at 15:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会

2006年07月17日

「武装解除」を読んで

busoukaijo.gifきのう図書館で貸し出してもらったのは、11日の「お玉さん」のところの記事タイトルにひかれて、市立図書館にすぐ予約した「武装解除」(著者・伊勢崎賢治)がようやく貸出しから戻ってきて「入庫しました」と連絡があったので、受け取りにいった。

区の図書館は自宅から歩いても数分のところなのだが、平日は地下駐車場がガラガラなので通りがかりに寄らせてもらうことが多い。連休期間中は併設ホールで講習会やイベントがあるので、館の外まで駐車場空き待ちの自家用車であふれている。いったん自宅へ車を置いてチャリンコに乗って行ってきた。

ブログという新たなコミュニケーションツールが普及して、誰もが自分の意見をきたんなくアップできるのはすばらしいことなんだけれど、ややもすると発言することばが、知識の受け売りになっているのではないかと思うコメントや記事が目について老爺心(ろうばしん)ながら危ぐしている。

もちろん知識を得ることは大切だのだけど、これほど情報がちまたにあふれていると、受け売りのそのまた受け売り的議論だけで沸騰してしまうのは、現実から遊離した実のないことば遊びのゲームに成り下がってしまう。

だからと言う訳じゃないけれど、今回読ませてもらった「武装解除」は書かれていることばに重みを感じる。興味のない人にとって、この地味な本は退屈かもしれないが、著者の目を通して現実を再確認することを身につけることは、これは知識が単なる知識で終わらないための自分たちの課題でもあると思う。

「お玉さん」は謙虚だから、ご自身のブログ記事に書かれなかったけれど、この本のあとがきの最後の部分に「日本の平和貢献の将来は、女性が担う予感がする。」と書かれてあった。
同感である。

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posted by ゲゲゲのイチロー at 15:42 | Comment(1) | TrackBack(3) | 社会

2006年07月01日

体験することは必要なのか

ずっと前、何かの番組で黒柳徹子さんご自身の好奇心について語られたことがあって、電気製品を買って来た時に、その取り扱い説明書の最初の部分に「やってはいけない事」項目があって、彼女にとってそれが何故やってはいけないのかすごく気になって、一通りやってみてるのだという。(最近は何故やってはいけないのか、具体的に理由を説明してある説明書も増えてきた)

彼女のユニークさの一端を表わす話だったのだが、これはある意味では「なぜ?」と疑問を懐いたら、それを解明する為に行動に移して見る。この単純なことが意外と出来ない。いや疑問さえ浮かばない。というのが普通ではなかろうか。
そんなこと気にしなくても取りあえず、生きていけるから?
生きていくことが大変な時代には運命に翻弄される前に、人々は自分自身でそれを克服する為に様々な事を試み、挑戦してきた。それが教訓になり、歴史となって継承されてきた。

でもその平穏な時代が長く続くと継承が継承のための学習となり、その学習も活字や画像で伝える臨場感のないものになってしまう。だからといって実体験が必要なのか、地震や水害は体験したほうがよいのか。戦争は。

333.gifアメリカの海外派兵は世代が交代していく事によって実体験の継承が薄れていくのを防ぐ為だと言う説もある。
わたしも自分の地元で、戦争経験(旧海軍・厳密には出兵直前で終戦)最後の海上自衛隊地方総監の退役式に立ち会ったことがある。総監は経験者のいない、これからの自衛隊を愁うオフレコの言葉を残して退役された。

何年か前、広島市近郊で戦後初めての大規模な水害に見舞われた事がある。
そのとき最新の情報収集の手段を駆使できる能力と壮備のある行政がその機能を発揮出来ず、罹災地域を拡大させてしまったことがあった。ある筋に言わせば社民党推薦の現市長がイデオロギーにこだわって地元陸上自衛隊の災害救援の要請を最後までこだわったからだという。隣市の呉市では過去の災害の教訓に基づいて、早々と地元海上自衛隊に災害救援を要請し、市消防局との連携で被害を最小に抑えた。(平和宣言都市と旧海軍・現海自の街との違いか?)

わたしは今風の政治ブロガーにいわせるとサヨクである。この言葉は嫌いだ。わたしの世代の大半はこの言葉には皆、違和感を感じていると思う。もし言ってもらえるならば、リベラルとか革新とか言って欲しい。若いブロガー連から革新なんて言葉を聞かなくなったのは、現在の左に位置している政党や運動家たちが旧態然と、硬直した思考回路で行動している様を見て、革新でなくて(保守)だと思っているのかも知れない。

わたしは、自主防衛の拡大解釈の大きな流れに一抹の危惧を感じている。この平和ボケの中にある自衛隊の身の置き場の無い現状に、関係者たちの焦りがあることも遠巻きながら感じる。だが、わたし自身は存在(自衛隊の)を否定するほどの理想主義者でも無い。現実は現実として受けとめたい。存在の是非は別として。

この世から争いが無くなる事が一番理想であることは事実だが。

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posted by ゲゲゲのイチロー at 21:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会

2006年06月30日

東京人VS大阪人

今日はウチのブログサイト(SeesaaBLOG)のクリーンアップトリオ、「がんばれ生協の白石さん!」を訪問しました。いつも変らぬスタンスはクリーンアップを持続されている風格があります。(わたしが勝手にそう思っているだけかも知れませんが)やっぱり、いちばんウケているのは短文ながらも、あのウィットの効いた回答でしょうね。oosaka.gif

今日(29日分)の掲載記事の後半に

>先日、コンビニでアルバイトをしている友人からお会計のあとお客さんから「ありがとう」と一言いわれると嬉しいという話を聞いたので、早速実践してみました。
すると店員さんからの反応は上々で、最近は心の中で“僕はなんていい人なんだろう”とほくそ笑んでいたりします。まだまだ自分はいい人になりきれていないなと感じる瞬間です。

いいなあ〜。またこの記事に対するコメントがいい。

>「まったき善い人」というのは、ありえませんので、念のため。
でも、ほんの少しでも善くしたい、そう思われてらっしゃることが伺え、少しばかし「誇らしく」思いました。
ですので「生協の白石さん」は、農工大の皆さんが「育んだ」ように思えます。
コンビニやドラッグストアのレジ打ちの人。宅配のおじいちゃん。
あの方々は、それはそれは過酷な「労働環境」の中で、作り笑顔を懸命にこさえているのです。
「人間はおよそ全く感情のないロボットであり、そのロボットを働かせる唯一の動力源、それは、「カネ」、「雇い主」サイドの発想は、本気でこうですから。そのことは、昨今の新聞を見ていても、何気にお分かり頂けるのではないでしょうか。
ですので、お客さんから「ありがとう」を言われたならば、本来持ち合わせている「人間らしい感情」を、そこでちょっとは取り戻すことができ、ほんとうにうれしく思うのでしょうね。ですから、カネを超えたところで、「ありがとう」が言えるなんて、ほんとうに素晴らしいことだとおもいます。

>関西では、レジで支払いのあと「ありがとう」「おおきに」はかなり普通だと思います。少なくとも私のまわりでは

>関西人さんに同意。少なくとも大阪では結構、普通です。
いくらお金があっても砂漠の真ん中でレストランに入って食事をできない。
お金は与えられたサービス又は商品との等価交換。だから私の欲しいそれらを売ってくれて、「ありがとう。」になる。その代わり等価交換だと感じられない店には買い物に行かないし、高いと思えば納得のできる値段まで値切る。安く手に入ったと思えば、大きな声で「ありがと〜。」
                                                                            
見栄の東京に対して、本音の大阪。
わたしも学生時代、そして社会人と、両方の街で暮らしていた経験がありますから、コメントされている方たちの言葉はよく分かります。見栄の東京で暮らしてらっしゃる「白石さん」にとって、ちょっとした冒険だったのでしょうね。本音の大阪なら当たり前のことなのに。
ちなみにわたしはコンビにで買い物しても言ってます。「ありがとう」

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posted by ゲゲゲのイチロー at 20:03 | Comment(1) | TrackBack(1) | 社会

2006年06月25日

米国産輸入牛肉解禁日を間近かにして

guniku-1.gif健康上の理由から、数ヶ月前からベジタリアンに徹している今日この頃なのですが、いよいよ7月から米国産輸入肉解禁になりますね。わたしは関係ないからといいたい所ですが、世の中そんな甘いものじゃないって。

この輸入牛肉問題がニュースで話題になったときに、食用牛肉そのもののことより、取り除かれた危険部位が砕紛化され、他の飼料と混ぜられて再び家畜の餌となって与えられているというのを初めて知り、草食動物が肉を食べるなんて思いもしなかった(飼料に加工されているとはいえ)。

昔、勤めていた会社の仲良しグループと山間の温泉地に小旅行したことがあります。昼間は近くの渓谷に、すがすがしい空気と景観を求めて車を走らせたのですが、虹鱒釣りの看板につられてそこへ立ち寄ることになりました。そこは虹鱒の養殖場で、プールのような養殖池がひな壇上になっており、一番下の段が大きな溜池になっていて上流の養殖池から逃げてきた魚達はそこに留まるのです。その溜池が釣堀になっているのです(ムダがない)。

釣堀も飽きて上流の養殖池を見学させてもらうことになりました、ちょうど餌をやる時間だったので係りの人が大きなバケツで撒餌していましたが、バケツの中を覗くと、肉の塊がびっしり入っているのです。それをプールの中央に向かって放るのですが、それは以前何かの映像で観たことのあるピラニアが獲物にむしゃぶりつくみたいに、池の虹鱒たちは水飛沫をあげて、その肉塊を奪い合うのです。見ていて気分が悪くなりました。

今回、食用肉の規制や監視が取りざたされていますが、もともと規制の甘いアメリカは、危険部位や発病した牛の、その後の処置は」どうなっているのでしょう。加工された物は対象外となって様々の動物の飼料や愛玩ペットの餌になっているのではないのでしょうか。人は時間が経つと、いい事も悪い事もどんどん忘れていきます。おそらくこの輸入牛肉問題だって、あと数ヶ月たてば、何事も無かったかのように牛丼屋や焼肉屋の前は食事を楽しむ人たちで一杯になるでしょう。

本当の問題は狂牛病にあるのではなくて、日ごろ飽食の日本の現状を嘆きながら、おのれはその足で焼肉を食べに向かう、この他人事感覚のほうがよっぽど問題だと思うけど、どうでしょうか。

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posted by ゲゲゲのイチロー at 10:21 | Comment(0) | TrackBack(2) | 社会

2006年06月22日

一期一会から始まって

最近パソコンの調子が悪くて、この間もやっと書き上げた原稿をアップしようとしたら、一瞬の内に消えてしまって、もう書く気力もわかなかった。しばらくその原稿のことも忘れていたのだけれど、今日いつも訪問させて頂いているお気に入りブログを開いてみたら「一期一会・・・・」という記事タイトルが目に止まって、よしこれでいこうと一念発起して、先日消えてしまった原稿を思い出しながら今書いている。

6月20日朝、いつもの遅い帰宅の車の中でぼんやりとカーラジオを聞いていた。生番組のインタビューコーナーで、その日のゲストは「新宿救護センター」代表、歌舞伎町駆け込み寺のゲンさんこと、玄秀盛氏だった。インタビュアーの簡潔な質問にぶっきらぼうともとれkakekomidera.gifるドスの聞いた関西弁が淡々と答えているのを、聞くとは無しに聞いていたのだが、気がついたらその対談の不思議な魅力に引き込まれていた。すでに自宅に到着していたのだが、そのまま車から降りず、しばらくそのコーナーが終わるまで耳を傾けた。

ここ数年、新聞等のマスコミで取り上げられたこともあるからご存知の方もいらっしゃるとは思うが、わたしは初めてであった。

大阪西成。在日。義父、義母。せっかん。貧乏。空腹。中卒。数え切れない転職。・・・・・・。キーワードを並べていくうちに彼の人生の輪郭が見えるような気がした。自立してからの生きていく上で彼に信じられるものは「カネ!」。がむしゃらに働いて、ときには極道まがいの世渡りもし、二十代のうちに年商十数億の実業家になった。信じられる「カネ」は手に入れた。その生き方になんら疑問も持たなかった。

6年前のある日、献血したときに後日送られてきたデーターに「HTLV−1陽性」と書かれているのをHIVと見間違え、人生の終着駅がもう目の前に迫っていると思った。葛藤した。それまでの40数年間の自分の歩んできた人生は何だったのだろうかと。その事がきっかけで4年前にすべての資産を手放し、新宿で一から人々の悩みごと相談所を開設する。大勢の共鳴してくれたボランティアの人たちに助けられて、赤字ながらも今日も「駆け込み寺」の使命に燃え、続けている。

これらをインタビューの中で本人が語るのだが、なんのおごりも無く、毎日が充実していると語っていた。お金儲けが目的の人生と決別して、無からスタートしたのに、今は何も無いのに大勢の人々が集まってくれる。支えてくれる。この歳(現在50歳)になって人の心のあたたかさが周りにいっぱいあることを感じる。自分が人生で信じられるものは「人びとの心」だったのだと今は感じていると語っていた。

わたしがラジオから聞こえる彼の自然な語り口に感動して、それをまだ知らないみなさんに紹介したくて書き綴っても、稚拙な文章力では万分の一も伝えることが出来ないのですが、新宿救護センター(NPO法人 日本ソーシャルマイノリティ協会)のホームページの「わが街わが友」の欄に東京新聞の過去記事をアップしたところがあって、そこが一番、わたしがラジオで聞いた内容に近い記事だと思います。

新宿救護センター http://jsma.jp/東京新聞掲載記事 http://www.jsma.jp/media/Tokyo.html

ManmoTVインタビューPART1 http://www.mammo.tv/interview/192_GenH/index.html 

ひらがなタイムス(日本をもっと知る) http://www.hiraganatimes.com/hp/scenes/kiji/kiji226-3j.html#top

追記 フジテレビ系で6月30日ドラマ化されて放映だそうです。
 

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posted by ゲゲゲのイチロー at 19:58 | Comment(0) | TrackBack(1) | 社会

2006年06月06日

カエルの子はカエル。

昨日の村上世彰さん(村上ファンド)や堀江貴文さん(ライブドア)が時代の寵児と世間で持てはやされても、それが一夜にして罪人扱い。若い人には相変わらず人気だけれど、アメリカ的サクセスストーリーは日本には馴染まない。

貧しかった日本が、お金さえあれば幸せがなられると、一億総エコノミックアノマルと化してみんな猛烈に働きまくり、そして得たものは物質的豊かさとは引き換えに、沢山の大切なモノも失った。その事にそろそろ気づき始めていても、じゃあ元の生活に戻れますか。テレビ見ながらスナック、ボリボリ食べて「うん、昔は良かった」なんていってる、そこのオジサンやオバサン。まず、おたくの生活態度から改めようよ。そんな親を見て育てばヘンテコリンな子供になって当然だよ。子は親の鏡だよ。

何でもかんでも人のせいにして文句があるなら、子供に誇れる大人になろうよ。どうせ長生きして、いずれは子供のご厄介になるんだから、そのときひどい目に合わされても知らないよ。

6月1日から道交法改正に伴い交通ルール無視の自転車に対する新しい罰則規定が実施されるにあたって、警視庁と広島県警の近年の自転車及び歩行者の関わる交通事故統計を調べてみた。そこでわかったことは就学児童(小中学生)の事故発生率の以外に少ない事だ。50代以降の熟年から極端に事故発生率が増加する。それは単なる高齢化に伴う体力的なことだけが原因じゃない。ただ単にルールを守らない大人が多いだけのことだ。就学児童はさすがに学ぶ気持ちのある世代だから社会のルールには、一番従順だ。

こういうのを具体的に数値で見せられると、反論出来ない。大人として恥ずかしい。自分たちがモラルもルールも守れなくて、やれ、政治がどうの、世の中がこうのとよく言えると思う。そんな世の中にしてしまったのは、先に生まれたわたしたちだ。でも、今更言ってもしょうがないかな〜と思っている今日この頃だ。

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posted by ゲゲゲのイチロー at 20:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 社会

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