今、思い出してみれば日本が高度成長期の時代、いまよりずっと劣悪な生活環境や労働条件だったにもかかわらず、当時の国全体の流れとしては、日々得られていく物質的豊かさにすべての国民が酔いしれて、冷静な視点で負の部分を指摘し警鐘を鳴らそうという姿勢が、はたして日本に本当に在ったのだろうかと考えることがあります(一部の負の当事者や運動家にはありましたが)。
戦後、GHQから与えられたとはいえ主権在民の本当の民主主義がスタートし、敗戦の痛手から復興を目指していた日本にとって「豊かな国とその生活を」という目標はイデオロギーや手段の違いはあっても、資本家および労働者双方の共通の目標でもありました。その間にアメリカ追従の保守勢力と社会主義を前提とした革新勢力の永遠ともいえるバトルが繰り広げられるのですが、国民生活が充実してくる事によって、いつしかそれは国民の日常の生活意識から離れていき、プロ運動家たちだけの闘争となって現実感の伴なわないものになっていったのだと思います。
実際には60年、70年を節目とした学生や労働団体による大きな闘争があるのですが、それもセンセーショナルな側面しか伝えないマスコミ報道をテレビで眺めている大半の国民にとって自分達の生活とは縁の無い(と思っている)意識の外の世界でした。
いまよりもっと巨悪な利権政治家や、営利最優先公害垂れ流し企業など、それらが巷に溢れていましたし、組合も労働貴族と呼ばれるパラサイト集団がアグラをかき、選挙のためだけの組織(いまの某宗教がその様相と似てきている)として、どんどん真の民意から離れていきました。まじめに政治に向き合わない大衆の無関心を嘆げく声はあがっても、毎日飽食に明け暮れしている人たちの耳には、地道な少数の活動家達の声はもう届きませんでした。
わたしは基本的には性善説派なのですが、現実には人間は性悪説をとったほうがよいのではないかと思う事もあります。バブルがはじけて幻想から目覚めて気がつけば、こころの貧しさ故にお互いにねたみあい、傷つけあい、疑心暗鬼が蔓延しています。いっそノアの洪水かなんか起こって、みんな(わたしも)流されてしまったほうがいいのではないかと思ったりもします。でも信じたい。少しでも可能性があるのなら。人間はそんな愚かな動物ではないはずだと。
この日記が駄文だったと後になって笑って話せる思い出話になることを夢見ています。
ウィリアム・クライン(写真家・アメリカ)の作品で世界の都市シリーズで60年代の東京を撮ったものがありますが、高度成長期の中の日本の混乱ぶりがレンズの目を通して冷静に描かれています)

