石橋を叩いても渡らないかも?

2006年11月27日

プロポーズの日を信じて

hiranuma-2.gifとうとう郵政造反組は踏み絵を踏んでしまいましたね。他人事ながら民間でいえば同族会社での経営者一族の主導権争いを見る思いですね。わずか11人のことですけれど、その陰に大勢の不満分子はいるはずですから。

反自民の立場でいえば、どんどん醜態をさらしてくれれば何もいうことはありません。偉い先生方がどれだけ志が低いかを、身を持って国民に示してくれるなんて願ったりかなったりです。次期参院選への危機感がそうさせたのでしょうか。

小泉さんが9/11で成功したからといって二番煎じをやるなんて身の程知らず、あまりにも役者が違います。これで一番喜んでいるのは野党ではなくて公明党でしょう。

しょせん自民党は沈みかけた老船です。それをリニューアルイメージで民意を取りつけた小泉政権だったのですが、このたびの措置は古い革袋に新しい酒を盛るがごとく無理があります。あの狡猾な自民党はどこへいってしまったのでしょう。

内心は嫌で嫌でたまらないあの公明党の力をまた借りなければならない状況に自らを追い込んでいます。沖縄知事選で見せつけられたあの力がなければ野党に成り下がるのはもはや避けられそうにありません。

なりふり構わないいまの自民党の姿に哀れさえ感じられます。

もう民意がこちらを向いてくれる日も間近です。

だが、思い焦がれていた彼(国民)がやっと、こちらを振り向いてくれたときに、彼の視線を釘付けにするだけの魅力を発揮する努力をしてますか。民主党さん。せめてその日まで磨きましょう。身も心も。

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posted by ゲゲゲのイチロー at 22:33 | Comment(1) | TrackBack(21) | 政治

2006年11月23日

わかりやすい質疑、わかりにくい応答 (訂正版)

きのうの夕方、気の向くままさんのブログが更新したとRSSリーダーがシグナルを送ってきたので、気の向くままさんのブログまでちょっとお出かけしてみました。

参議院質疑応答(教育基本法)の国会審議というタイトルで、いま見たテレビ中継のことを記事で書かれてました。本文のメッセージが活きていて興味をそそられ、さっそくインターネットの参院中継にクリックしてみたのですが、まだ収録中だったので、記事に書かれてあった連舫さん(民主党)の場面は収録完了まで待たないと見れないので改めて後ほど見ることにしました。

renhou2.gif夜半になって手が空いたので、さっそくクリックしてビデオライブラリーを開いてみました。
7時間27分に及ぶ長いビデオなので前半はすっ飛ばし、連舫さんの質疑応答場面が出てくるところまで画面を先送りしました。連舫さんのことは、どこかのアナウンサーだったこと位しか知りません。そういう意味では先入観を持たないで冷静に見ることが出来ました。

彼女の質疑の鋭いこと、すごい。。あの老練な閣僚たちがタジタジなのです。彼女の言葉は聞いていても簡単明瞭でわかりやすいのです。それでいて的を外さないから政治用語オンリーのわかりにくい答弁しかできない大臣や官僚たちがまるでバカみたいにみえます。それも意味不明瞭な答弁をオウムのように繰り返すしかない姿はおおいに笑えました。

安倍さんなんかビビってしまって、指名されても腰が引けて椅子から立ち上がれないのです。とっさに議長が代わりの大臣を指名して、その場を取り繕うとしたのですが彼女はそれを許さない雰囲気です。しかたがなく大臣の後に改めて答弁するということで納得させたのですが後出し答弁は楽ですよね。先に述べた大臣の言葉をなぞればいいだけなんだもの。こんなのあり〜?

いよいよ質疑応答は佳境に入ってきて、もうこうなると一方的に彼女の独壇場。質問内容もしっかりと裏付けがとってあるからブレないのです。これと対照的に政府側はまともに答えられないのです。安倍さんなんかバカのひとつ覚えみたいに「ただいま調査中なのでわかり次第しかるべき処置をとりたいとおもいます」というようなことを繰り返すばかりです。

このやりとりを見ていて気がついたのは、連舫さんのわかりやすい言葉に対して、政治用語しか話せない大臣たちの言葉との違いです。これが国民に政治は難しいもの、わかりにくいものという印象をうえつけているのだと気がつきました。

これは与党側に限った話ではないのです。政治に関わるすべての議員に言えることです。彼らは日常用語で話すことはプライドが許せないのでしょうか。それとも議員になるとそういう言葉しか使ってはいけないという決まり事でもあるのでしょうか。

もうひとつ気がついたことは答弁の言葉の語尾が決して断定的なかたちで締めくくっていないことです。これは後になって答弁に矛盾が出たときにどうでも逃げられるように言葉の解釈に巾を持たせているとしかおもえないのです。そのあいまいさが国民に政治家は言い逃れや嘘を言う人種だと先入観を持たせてしまうのでしょう。

小泉さんがいつもワンフレーズでわかりやすかったのと、言葉の語尾はいつも「・・します」「・・です」と断定的な言葉で締めくくっていたことを思い出しました。ひとははっきりと日常用語で言い切る言葉には耳にも心地よく頼もしく正直に感じるのです。だから若い人たちに人気があったのかもしれません。

きのう、らんきーブログさんも記事で書かれていましたが、国民の位置まで立ち位置を下げることはプライド以前のことです。それは決して恥ずかしいことではないのです。わかりやすい政治を心がけることこそ、国民の期待に応える真の政治家だとおもうのですがどうでしょうか。

(おまけ)
きのうの楽しい連舫さんの質疑の様子を見たい方はコチラ ↓
2006年11月22日  教育基本法に関する特別委員会(参議院)・ビデオライブラリー
http://www.webtv.sangiin.go.jp/webtv/index.php
録画時間が長いので先送り(早送り)して見てください。ニュースでやっていたタウンミーティング会場経費でのエレベーターボタン2回押しただけで日当1万5千円のやりとりも見れますよ。

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posted by ゲゲゲのイチロー at 18:26 | Comment(3) | TrackBack(7) | 政治

2006年11月20日

沖縄知事選を終えて

沖縄県知事選、野党連合が与党連合に敗北したという結果に終わってしまいました。
この結果に対してみなさんはどう受け止めていらっしゃるのでしょう。

負けた負けたと悔しがる前に、冷静な分析が必要です。感情論だけでは選挙は勝てません。その原因をあらぬほうに向けて、それをいってどうなるというのですか。前回のブログでも書きましたが、主権者は国民にあるのです。結果的には民意を受け止められなかったということでしょう。これが実社会だったらどうです。ひとが良いだけで世間を生き残っていけますか。

okinawachiji.gif選挙結果の分析をわたしなりにしてみようと思います。基地問題を前面に出して支持を訴えた糸数さんは、その件に関しては圧倒的に支持を受けています(84パーセント)。ただし、地元経済の活性化に関しては仲井氏のほうが糸数さんを倍以上の支持を取りつけています(67パーセント)。
このグラフは何を投票の決め手にしたのかという投票所の出口調査なので支持率と得票数はつながりませんのであしからず。

グラフには書きませんでしたけれど、今回の選挙は政党で選んだひとは32パーセントで、過半数の有権者(60パーセント)は党よりも人で選んでいます。与野党双方とも連合なのでこれは無視してよいでしょう。
各党別支持者はいずれも自分の党が推薦した候補者を80〜90パーセントの人が投票しています。

無党派層がどちらに入れたのかがいちばん関心のあるところですが糸数さんに63パーセント、仲井氏に35パーセントなので、糸数さんはよく健闘していると思います。

日本でいちばん失業率の高い沖縄県の県民にとっては、基地問題の将来よりも目の前の明日のコメ代でしょう。これは基地問題に関心がないのではなく、それ以上に日々の暮らしが切実な関心事だということです。

仲井氏はその辺を基地問題も含みを持たせながら、実生活につながる地元活性化の政策を前面に出してきました。いわば作戦勝ちです。

話しはとびますが、同日におこなわれた福岡市長選で野党推薦の候補が与党現職市長に勝ったのも、ある意味では未来のオリンピック誘致構想よりも、目の前の市の赤字財政をどうするかというほうが市民にとって切実な問題だったのだと思います。

戦う背景や生活環境の違いこそあれ、どちらにも共通することは住民にとって遠大なビジョンよりも関心は現実的な目の前の問題でしょう。

バカのひとつ覚えみたいに何度も言いますが、民意を汲み取ってこそ勝利の道は近づくのです。押しつけの夢よりも明日の現実です。
冷静な一部の政治ブロガーの方たちは、落ち着いた意見を述べられています。負ける悔しさで落ち込むのではなく、それをバネとして次の戦いに挑むことこそ真の戦い方だと思います。

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posted by ゲゲゲのイチロー at 20:34 | Comment(1) | TrackBack(14) | 政治

2006年11月18日

ある「ディベート」の記事を読んで思ったこと

最近ブログやっててつまんないのは、記事を掲載されている方に寄せられるコメントとその対応のありかたに少しづつ疑問を持ち始めたからです。

コメント欄って本来は記事を読んでもらった感想や意見を読者から聞くためにあるのでしょう。違いますか?
それがなんだか拝見してると、コミュニケーションの場というよりは仲間内で群れ合っているという感じです。だから書かれてるコメントも、その記事を賛辞した言葉で占められています。それはそれで構わないのですが、自分なんか記事を読んでてチョット違うなあなんて感じたことを、一読者の意見としてコメントを送っても無視されてしまうのです。

ひとさまのブログだから、言葉を選んで失礼の無いようにひと言ひと言を気遣いコメントを書いても、やっぱり無視されてしまうのです。相手が筆無精なのかというとそうでもないらしい。自分のひとつ前のコメントまで丁寧にコメント返ししていたのに、自分のコメントの番になるとダンマリ?

もし、それが政治ブログかなんかだと予期せぬ訪問者はその方にとって想定外で、だから返答に詰まってしまうのかなと。もしそうならば、さっきまで書かれてあった立派な記事がとたんに色あせて見えるのです。こんな他愛もない、いちコメントに答えを返せないなんて。

ある人に言わせば「空気の読めない場違いなコメント」ということになるのでしょう。また別の人に言わせばブログは主宰者に権限があるのだから、どういう処置をとろうと勝手だと言われる。早い話がこの指止まれの仲良しごっこなのだと。う〜ん。それも楽しくていいかもしれません。

わたしが何故このことを取り上げたのかといえば、上に書かれたような態度をとられる方に限って、書かれている記事の内容は「愚民は何故、わたしたちの言葉に耳を傾けないのだろうか」とか、「無知な国民を目覚めさせねばならない」とか、そんなことばかりが書かれてあります。そんな人を上から見下ろすような言葉を吐きながら、一方では相手にもっと聞く耳を持てと責めたてる。そのくせ自分自身は聞く耳を持たない。

それで国民の民意が汲み取れますか?あなたの言葉に国民が耳を傾けてくれると思いますか?聞いてくれないから、また愚民だといって切り捨てるその態度。それを繰り返している限り、仲良しごっこの輪以上のものは何も望めないと思います。

オーマイニュースの投稿記事の中に「ディベート」をテーマにした記事が載っているのを目にしました。

書かれていらっしゃる方の経験(授業)に基づいたお話なのですが、例えば「喫煙を認めるべきか、否か」というような議題で賛成派と反対派に分かれて議論を戦わせるのだそうです(審判に当たる人もいるそうです)。
おもしろいのは散々議論を戦わせた後に今度は立場を入れ替えて、賛成派が反対派として、反対派が賛成派として再び議論を戦わせるのだそうです。持論と異なる立場に立って議論を戦わせるのですから最初は戸惑いがあるのですが、そのうちにいかにしたら相手を説得できるのかと真剣になってきて、議論は盛り上がっていくのだそうです。

何が言いたいのかといいますと、立場が入れ替わって議論することによって、より客観的に本来の持論を相手に伝える技が身につくということです。とかく議論となると持論の主張ばかりにこだわって相手の立場や意見の見えない一方的な説得に走りがちになってしまい、そのことが結果として巧をなさないことを知るための試み(授業)なのだそうです。

補足ですが、この記事に寄せられたコメントの中に、このこと(記事内容)に加えてとひと言ありました。審判に当たる人を意識しながら議論出来るようになれば、より多くの人に訴え伝えていく力がつくと補強意見が寄せられていました。まさにそのとおりです。その審判 こそが日常生活ではわたしたち国民なのですから。

揚げ足とり戦術や、罵倒討論も議論という場にはあってしかりですが、政治の世界ではいかに民意を自分の側に取り込めるかが、勝利へ近づく第一歩ではないでしょうか。

(参考資料)オーマイニュース「教育現場にこそディベートマッチを」
                昨今の日本人は議論下手   大村賢三 より
  http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=000000003053 

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posted by ゲゲゲのイチロー at 13:27 | Comment(3) | TrackBack(1) | 政治

2006年11月13日

オーマイニュースに微かな望みが

ブログって続けていくだけでも体力いりますね。あんまり裏付けのないいい加減なことも書けないし、そうかといって何も思い浮かばなかったら、つい想像だけで書いてしまいますね。わたしは小心者だから、あとで読み返すと自己嫌悪に陥ることはたびたびです。

あのニューメディア・オーマイニュースの鳥越編集長の記事が炎上しています・・というタイトルで記事を書きかけていたら、急用が入って不用意にPCのスイッチを切ってしまった。あっと思ったときはすでに遅し、全部消えてしまった。

そもそもの発端は双方向性を生かした市民参加のニューメディアというふれ込みでスタートしたのだが、2ちゃんねる掲示板よろしくバンバン批判コメントが返ってくる。ある程度は想定されていたことだけれど想像以上の書き込みに、気の弱い市民記者だとおじけづいてしまって投稿を控えてしまう。だからある方のデーターによると登録数が伸び悩んでいるとのこと。主宰者の思惑どおりことは進んでいないようだ。

それでこのたび規約改定予告を鳥越編集長名で掲示した。とたんに膨大な数の批判コメントが寄せられて、もはや炎上状態。これまでの編集部の対応のまずさが真っ先にやり玉にあがってしまった。杜撰といえば杜撰なのだけれど、最初の主旨が誰でも参加できるということだったからいまさら取り下げることも出来ず、結局は一部、コメントに規制をかけようということらしい。納得のいかない人は去っていってしまう。

その膨大なコメント読んでいて、せっかく既存のプレスでは出来ないことに挑戦するニューメディアだと期待していたのに早くも頓挫かという雰囲気なので、最後に恨み節のひと言ぐらい書いてやろうと書きかけていたところだった。(わたしは参加していないのでマイブログにしか書けない)

一夜明けて消してしまった文面の記憶をたどりながら書かねばならないので再度コメント欄をのぞいてみたら、きのうにもまして数が増え続けている。このあたりぐらいがきのうの続きだろうと読み始めたら何故かあれほど批判の山だったのにきょうのコメント欄は様子がおかしい。(じつはわたしの勘違いで前日アクセスランキング1位の記事だから同じ記事だと思って、いきなりコメント欄から読み始めたから記事そのものが前日と変わっていることに気づかなかった)

それは、ある一市民記者のかたの記事に寄せられたコメント欄だった。そのかたの記事は自分が初めて市民記者をやってみようという動機の説明から始まって、最初に掲載された記事がケチョンケチョンに批判されて惨めな思いをしたこと。でも気を取り直して指摘された至らぬ点を改めながら再度書き続けていったこと。厳しい批判が自分を磨き、支えていったことなど感謝の気持ちを込めて書かれていた。

あれほど辛口のコメント常連の連中が彼女の記事に対して誰一人批判をあびせることもなく、まるできのうの嵐がウソのように静まり、皆、賛辞の言葉に変わっていった。そして厳しい言葉を発していた彼らも胸襟を開き、オーマイニュースの未来について真剣に語り始めた。

今回、わたしが学んだことは、厳しい批判を卑屈に受け止めていじけるよりも、彼女のように傷つきながらでも自分の至らぬところを謙虚に反省し、再度挑戦してみるその姿勢が、あの怖い常連の批判ギャラリーの心をも解かしたのではないかと。なんだか読んでいて鬼のあつまりが、いつのまにかみんな福顔になっているようなこの光景は、コミュニケーションの難しさと優しさの両方を同時に見たような気がした。

(追記)オーマイニュースの記事は2日ぐらいで消えてしまうみたいなので、念のためその市民記者さんのお名前と記事タイトルを書いておきます。お名前は長島美津子さん、記事タイトルは、* 同じ「市民記者」の方々に問いたい * です。オーマイニュース内の検索欄で出てくると思います。
(追記)
”同じ「市民記者」に問いたい”の記事  

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posted by ゲゲゲのイチロー at 23:54 | Comment(4) | TrackBack(7) | ニューメディア

2006年11月12日

戦後の昭和から平成のきょうまで

本当は絵画の道に進みたかったのに、うちの経済状態では大学進学もままならず、のちに社会人になってからもしばらくは趣味で続けるしかなかった。

そうはいっても瀬戸内の小さな一地方都市に若い私たちにとってこれといったサークルもなく、それがいつのまにか夢を持った者たちが互いの共通点もないのに集い、やがて小さな群れとなった。それはバイク仲間であったり、音楽や絵画を目指す卵たちだったのに。今にして思えばその不思議なつながりは「若者」という立場が互いに共通するキーワードだったのだと思う。

集えば熱く語ったし、拙い知識や情報も自分たちにはとても貴重なものだった。同じ頃、進学した友は大学紛争の渦に巻き込まれ、石を投げ合っていたことなどその時は知るよしもなかった。同じ時代を同じ時間に生きているのにそれはわたしにとって遠い世界の話だった。

やがて上京し、プレスという道を選んだばかりに、好むと好まざるとに関わらず、社会に目を向けて生きていくことが生活手段となった。それも冷ややかな目で。親の庇護のもとで革命を叫んでいるヘルメット姿の昔の同級生たち。カメラのファインダーに写る彼らの姿はわたしにとってただの群れ(被写体)でしかなかった。

あれから何十年、皆、何ごともなかったように、ある者は役所に、ある者は教師となり、同じように歳を重ねて生きている。その禿げ上がった後頭部と年老いた後ろ姿を見るにつけ、あれも遠い幻だったのかと時の流れは全てを記憶の片隅に追いやる。

様々な彩りを織りなす過去の日本の歩みも、わたしの屈折した心のプリズムには一筋の無色の光でしかない。
きょうのことも何十年か後に色がついて見えるのだろうか。

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posted by ゲゲゲのイチロー at 01:15 | Comment(1) | TrackBack(3) | 社会

2006年11月10日

様々な情報の裏と表

きょうは珍しく長文になるので、すでにご存じのかたや関心の無いかたはスルーしてください。

最近、よくテレビを見る。といっても、ここ一週間です。
みなさんの批判の元凶がすべてテレビが発端になっていると思われるので、現状を見ずして意見を述べるのは片手落ちだと思い、時間があれば見るようにしています。ただしニュース番組だけですが。でも、週明けにはまた見なくなると思います。

みなさんがテレビを重視しているのは、たぶん速報性があるからだと思うのですが、それはあまり意味がないと思います。ただ情報を得るだけならWEBのニュースサイトで十分です。更新の速いメジャーサイトならほとんど同時か、むしろネットのほうが速いくらいです。

限られた時間の枠の中で、しかも視聴率を気にしながらのテレビニュースはさまざまな思惑をかかえながら、視聴者にとって不必要なコメント(ナレーション)や映像で飾られます。本来視聴者自身が判断し、考えていかなければならないことまでテレビが語ってしまうのです。それをあたかも自分の考えと錯覚し、多くの人は見てしまうのです。知らず知らずのうちに不必要なコメントや映像まで、自分の中に受け入れてしまうのです。これはニュースだけに限りません。テレビの弊害は自分自身が「ものを考えなくなる」ことなのです。

わたしはテレビから得られる情報を否定しているのではありません。ただテレビが成り立っている仕組みを考えれば一般企業と同じように様々な条件に制約されているその中での一情報番組なのです。テレビという媒体はエンターティメントからニュースまで幅広い内容を抱えて成り立っています。だからどちらが主でどちらが従なのだというものではないのです。

例えが適切かどうかわかりませんが、街売りの週刊誌と同じなのです。売れなければ雑誌社として成り立っていかない。テレビも同じことがいえると思います。みなさんはご存じかどうか知りませんが、その売れ数(テレビは視聴率)が、掲載してもらう広告の契約率に繋がるのです。

わたしは、ある時期に月刊誌を発刊している出版社に努めていたことがありました。コンビニやマガジンショップに並ぶ様々な週刊誌や月刊誌はお店の買い取りではなく、売れ残ったら全て版元が引き取るのです。一部の人気雑誌以外はほとんど新刊更新時に引き取られます。わたしがいた当時の週刊誌でいえば完売に近い実績を出していたのは1誌か2誌でした。おそらく今もそれは変わらないと思います。では何故売れ残る程、過剰に供給するのか。

それは世間にその存在を認識してもらうため。それが公称何百万部発行の雑誌としてスポンサーがつき、広告収入を得られるのです。その裏には大量の廃棄される雑誌があるのです。極端なことをいえば本の売れた代金なんかお店へのリベート、流通にかかる経費、印刷にかかる経費を引けばほとんど残らないか、下手をすれば赤字です。それでも続けていけるのはその情報媒体の存在によって得られる広告収入があるからです。

これはテレビ、雑誌の世界の話しだけではなく新聞の世界にも言えることです。新聞は値上げのときによく使われる口上に「報道としての中立性を保つ為、この度○○円値上げさせて頂きます」と書かれている社告をご覧になったことはありませんか。本来新聞購読代金50パーセント広告収入50パーセントが理想なのですが、昨今の不況下に広告収入は激減しています。新聞の発行部数も「押し紙」といって供給過剰な新聞を販売店に押しつけています。

雑誌と違うところは売れ残ったらその代金は全てお店が被ることです。それでも販売店がやっていけるのは各社条件がまちまちなので今回は詳しい説明は割愛させて頂きますが、ようするに新聞社も雑誌と同様、広告収入が大事なウェイトを占めているのです。実質販売部数を水増(公称発行部数)し、広告収入を得ようとします。だから余分に押しつけられた新聞を販売店とっては捨てるぐらいなら、タダでも次回契約のために無料で配布したほうがよっぽどいいのです。

長々とまとまりのない駄文を書いてしまいましたが、資本主義経済の中でジャーナリズムを確立するのは容易ではありません。どの情報が真実に近いという基準は無いと思います。それは受け止める人の立場の違いで様々だと思われるからです。ではどうすればいいのか。それはわたしにもわかりません。もしひとつだけアドバイス出来るとしたら最初のほうで述べたように、「自分自身で考える」ことを身につけることです。そのためにちまたにあふれる情報から自分にとってよいものを見つけ出す「目」を養うことです。

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posted by ゲゲゲのイチロー at 11:30 | Comment(1) | TrackBack(3) | マスメディア

2006年11月07日

夢よ再び

carp.gifきょうは思いっきりローカルネタでいきます。
我が弱小球団広島東洋カープの黒田博樹投手が今袖取得したFA権を行使せず、来年も広島カープで活躍することを表明してくれました。バンザ〜イ!
とかく、まわりは色々いうけれど、いまや引く手あまたの黒田投手にとってカープに残るか、好条件の他球団に移籍するか随分悩んだみたいだ。「FA宣言すれば(他球団の評価を聞いて広島に)帰ってこれなくなると思った。このチームで優勝したいし、ファンと力を合わせてプレーオフを目指したい」

いまどきこんな奴おるか!泣けてくる。(日ハム優勝の新庄選手のときも泣いたけど)

最初から条件の良いビッグチームを拠点として活躍するのも野球選手にとって夢かもしれないけれど、小さくても弱くても可能性を信じて残留してくれたことは、地元ファンの子どもたちにかけがえのない夢を与えてくれた。

わたしの生まれた翌年に、日本で唯一の市民球団として発足した広島カープは25年間、セリーグの中で一度も優勝したことのない、自他共に認める弱小球団だった。わたしは呉の出身だから冬期キャンプは、当時パリーグ最強の南海ホークスとセリーグ最弱の広島カープが前期後期に分けて呉市民球場にキャンプインしていたのを見て育った。

南海ホークスは監督の鶴岡さんが呉の出身だから、いわばお義理でキャンプしてもらったようなものだが、かたや広島カープは貧乏球団だから近距離の滞在費用のかからない、隣の町の呉市民球場を選んでいたわけだ(宿舎も商人宿風の粗末な旅館だった)。通っていた小学校が球場のすぐ近くなので、子どもたちは授業が終わるとランドセルを放り出して毎日、球場に一目散に駆けていったものだ。あこがれのプロ野球選手を見に。

わたしが成人して社会人となって上京し、広島に帰って来た年に初めてリーグ優勝した。実に長い25年間だった。いまだから言えるけれどカープファンでさえ一生、優勝は見れないと思っていたから、そのときの感激は今でも忘れられない。奇跡だった。なんかこのことを書いていると北海道へ移った日ハムが4年目にして地元道民の声援の中で優勝したシーンがオーバーラップする。

1991年のリーグ優勝を最後に、いまや懐かしの弱小広島カープに戻って久しい。
日々、いまの モノ、カネ、チカラがまかり通るこの暮らしの中で、それに勝るミラクルパワーが再び訪れることを信じて疑わない。だって25年も待てたのだから。
夢は、いつかかなう日が来ることを信じているから夢なのだ。
(写真は中国新聞より)

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posted by ゲゲゲのイチロー at 16:11 | Comment(2) | TrackBack(1) | ローカル(社会)

2006年11月06日

NHKクローズアップ現代を見て

usa.senkyo.gif先週のわたしの記事は来春の広島市長選がらみの内容だったけれど、これってネガティブキャンペーンっていうんですね。今、見ていたNHKのクローズアップ現代「亀裂深まるアメリカ・中間選挙ルポ」の中でやっていた。

アメリカ民主党の攻勢に危機感を持った共和党が空前のネガティブキャンペーンをやっている。民主党も負けじと同様、キャンペーンを張っている。相手の個人的なアラを探し出してイメージダウンを計るという戦術は、なんか日本のインターネット・ブログ界の罵倒合戦とよく似ているなあと思った。だから先週、わたしが書いた記事も広い意味で言えばネガティブキャンペーンのひとつなのですね。

正直いって書いた後は、かなり落ち込んだ。憎しみを持って相手を批判することはどちらが正論だという以前に、言っている自分自身が傷つく。たぶん世の中でどんな些細なことでも、こんな小さな憎しみから争いごとが始まるのだと思う。相異なる意見があって一番難しいことは、どちらも自分が正論だと信じて疑わないことだ。それがときとして過激になって相手を罵倒し倒す。後に残るのは何か。やられた方の憎しみだけ。

なにか日常生活の、そう、いまのイジメの問題だって、やっている方に多少の後ろめたさや、何がしかの心の痛みがあれば状況はもっと変わっていったと思う。でも今はそれがない。大人も子供も。これは人間の本能(煩悩)なのか。心の痛みのない状況が蔓延している。今の世の中に何を正義とし、何を自分の生きる指針として人は生きていけばよいのか。人は叩かれば痛いと誰もが言う。叩き返せば最初に叩いた相手が自分が悪かったという気持ちになるというのか。もしそのまま叩き合いが続けばまわりの人たちはなんと思うのか。

usa.senkyo-2.gif明日はアメリカ中間選挙の投票日である。双方、具体的な政策の語られない異例の選挙だという。街頭インタビューであるアメリカ市民が言っていた。どちらの党のネガティブキャンペーンも、もううんざりだと。いまアメリカ社会は疲弊している。いつまでも終わらない正義のためのイラク派兵と戦死者。果てしなく効率化をめざすグローバル社会の落とした陰。それに伴った失業と生活不安。拡がる経済格差。目の前の多くの問題を抱えながら権力闘争に明け暮れているアメリカ政界の姿は明日の日本の姿だ。そこにあるのはその政争の嵐で取り残された多くの国民。

わたし自身ブログの片隅で物言うことは、たとえ少数の方にしか目に止まらないとしても、見ていただくことを前提に書いているのであれば、それが誰のための言葉なのか、いまの自分を見つめ直さねばならないとあらためて思った。
(写真はCNN,APより)

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posted by ゲゲゲのイチロー at 22:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 政治

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