石橋を叩いても渡らないかも?

2006年08月30日

自分の考えを持つことの大切さ

supigura.gif最近、急激に政治ブログに興味が無くなってしまった。
きのうまでは自分だって声を上げて、何だかんだと叫んでいたのだから、こんなことを言うのは無責任きまわりないのだが、かかわればかかわるほど迷路に迷い込んでいくようで、いったい何のために記事をアップしているのか自問自答することも多くなり、いっそ原点に省ることも必要なのではとおもっている。

もともと用心深い(タイトルどおり)性格だから人の尻馬に乗るほど単純ではないが、自分が職業としてカメラマンを志した動機は、すでにまわりにマスメディアという生活環境があったからで、同世代の人たちよりも社会に関心を持つきっかけは十分であったと思う。でもその時点では年相応の若者であり、先輩たちの話の輪に入っていくのは容易ではなかった。いつもつまらない質問をしては笑われていた。
心の中で、いつか対等に話ができる自分に成長してやるのだという思いがあって暇を惜しんでは読書もし、先輩たちのいう話題の映画やテレビ映像、世界の名だたる写真家の作品展から写真集まで機会あれば見て回った。それは、ただ単に早く一人前に扱ってもらいたいがためだった。

当時は一人前になるまでの過程において、先輩たちが手取り足取り教えてくれるような時代ではなかった。わたしは仕事中も仕事を終えた後も、腰巾着のようにつき歩いて、先輩たちの言動を一言一句、一挙一動を見落とさない様、常に注意を払った。これが自分にとってのマニュアルでありテキストだと思った。わからない話題でも常にメモし、書店や図書館にいって資料をあさったけれど、ようやく手に入れることが出来た資料の内容が難解で理解できないまま部屋の片隅に積み上げてしまうことも珍しくなかった。

そういう日々が何年か経過したある日、わたしが師匠とあがめていた先輩が「○○君は、映像で何をやろうとしているの?」といきなり質問をぶつけられ、ドギマギしながらも「わたしは社会にたいして、自分が今学んでいることによって(映像が)何か出来るのではないかと・・・・・」「ふ〜ん。カメラは手段だよ。この金属の箱が何を生み出すっていうんだい。君自身が何もないカラッポのままなら、写る映像もそのままなのさ・・・・。」
数年間、アシスタントを始めて、向こうから指導らしい声をかけてもらったのはカメラ露出の設定(当時はすべて手動設定だった)と、この時の問いかけの答えの二つだけ。それから程なく先輩(師匠)の元を離れ自力で職を探し、自分の出来る能力を面接にいっては売り込んで、長らく業界に住み続けることになってしまった。

でも、あのときの餞別ともいえる先輩(師匠)のひと言は、自分自身の考えを培うことが表現者として一番大切なことなのだとわたしに送ってくれた貴重なひと言だったとおもう。

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posted by ゲゲゲのイチロー at 15:50 | Comment(1) | TrackBack(3) | マスメディア

2006年08月25日

前呉市長逮捕(市消防局職員試験不正改ざんから始まって)

ひさびさに、わたしのふるさと呉が全国ニュースに話題を提供してしまった。こんなことぐらいでしか知名度を上げられないなんて情けない話だが、もう早くも半日でメインニュースから遠ざかりつつある現状は、ニュースソースとしてはあまりにも日常茶飯な事件で、マスコミにとってはコンビニ弁当の味にも劣る月並みな話題だったのだろう。

わたしとて、これが他の一地方都市で起きた事件なら記憶にとどまるどころか、見落としているところだが多少なりとも懐かしさもあるふるさとのこと故、関心をもってすでに伝えられている報道資料に目を通して見た。

kureshiyakusyo.gif発端は市の消防士職員採用試験の不正改ざんに現職の市消防局長以下幹部3人が関与し(局長および幹部、計3人起訴、幹部1人は不起訴)合格ラインに届かない十数人の採点に手心を加えたという。応募者192人に対し10人採用という狭き門なのだがこの不正改ざんによって少なくとも2名は採用となった(ここまで手心加えてもらっても10人以上が落ちているとは、とんでもないバカが受験していたということ、こんな奴が消火現場に立つことを想像するだけで恐ろしい)

ローカルな事件でかたずくところだったのに取り調べ捜査が進むにつれ、現市助役、前市助役、計2人逮捕と事件は拡がり、遂には消防局不正採用の火の粉が、過去の本庁一般市職員の不正採用にまで飛び火し、24日には前市長(当時現市長)の逮捕まで至った。

人口25万の小さな地方都市だが、電話で地元の友人に町のひとたちの様子を伺ったところ、マスコミの報道ぶりとは関係なく、市民は冷静だと伝えてくれた(マスコミは作文が好きなので?やたら煽り記事が多いのはいつものこと)。
いわゆる、田舎の口利きにによる公務員採用は昔から珍しくもなく、いまに始まったことではないが、今回は市行政のトップがかかわっていたということで、それらを動かすだけの裏の実力者の影が見え隠れする。現段階では捜査当局も取り調べ中の段階なのでコメントは出ていないが、一部のマスコミ関係者や、わたしはほぼそれに該当する実力者が誰であるか見当はついている。

「仁義なき戦い」で全国に名を知らしめた町なのだ。その連綿たる構造が町を作っているのを一番よく知っているのはそこに住む人たちである。だからみな冷ややかに今回の件を遠巻きに見ているのだ。まるで西部劇映画の荒野の町のように。映画ならいずこからやって来た旅のガンマンが、この怠惰と腐敗にまみれた町に正義の光を当ててくれるのだが、現実はドラマのようにいかない。

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posted by ゲゲゲのイチロー at 16:21 | Comment(1) | TrackBack(0) | ローカル(行政)

2006年08月23日

無題

もう、若い人たちの新聞離れが進んでいるといわれて久しい。
テレビ・ラジオ欄を見るためだけに新聞を取っているという人にとって、ネットで番組欄が簡単に見れることはその時点ですでに新聞の利用価値がない。わたしなんか、一杯のモーニングコーヒーで、時間かけて三紙も四紙も朝刊読む客だから、行きつけの喫茶店にとってはどうでもいい客なんだろうけど。

shinnbunn.gif地元紙もあるのだけど、なぜか内容が散漫で、おまけにニュース配信が遅い。全国紙が一斉に取り上げている記事がどうかすると翌日の朝刊に載ったりする。一昔前ならいざ知らず、このオンラインの時代にいくら共同からの配給だからといってそれはないだろうとツッコミたくなる。要は編集のセンスの問題だろう。しかももっとも得意としなければならない地元ネタでさえ全国紙のローカル版に内容で負けたりするのだ。でも地元での宅配シェアーは圧倒的に強い。それは記事でなくて折込みチラシの量が多いから?。変なことで優位性を保っている。悪くいえば新聞ではなく、日刊タウン情報紙だ(そういえば記事紙面より広告紙面のページ数が多い)。

ローカルがローカルとして存在価値を確率するためには、対等に中央紙と渡り合おうなんて思わないことだ。それは新聞に限らずテレビの場合もそうである。地元各ネット局の主力番組はすべてキー局のヒット番組。それをただ配給しているに過ぎない。かなり以前から地元局自主番組の充実が叫ばれているが、粗末な予算とセットではたいした番組も創れない。まあ、無理して視聴率上がらない自主番組創らなくても、親方(キー局)日の丸で食えるのだから、新聞よりは楽。

全国ニュースでトップに取り上げられるような事件が勃発しても、そのときは中央本社(新聞)やキー局(テレビ)から取材クルーが続々と乗り込んでくる。地元スタッフはパシリを仰せつかって道先案内をするだけ。官も民も中央集権の上意下達システム。情報操作なんて思うがまま。

だが維新は来る。既得権益に安眠を貪れるのもいまのうちだけ。庶民を侮るな。

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posted by ゲゲゲのイチロー at 18:01 | Comment(0) | TrackBack(4) | マスメディア

2006年08月22日

恐怖政治と懲りない面々

仕事に復帰して忙しい毎日なのだけれど寄る年並みには勝てず、おまけに最近は老眼も出てきたから自宅に帰ってからのブログ拝見は意識もうろう状態。そんな案配だから自分の記事をアップするのも容易ではない。きょうは昼までには家に帰ったから、そのまま倒れるように眠り続け、やっと先ほど起き出して画面に向かっている。

koizumi.gif明日は久しぶりのお休みだから夜更かししても大丈夫なので何か書かなくてはとPCをオンしたら、ちょうど喜八ログさんからTBがあったのでちょっと覗いてみた。
「変人・小泉純一郎」の素顔というか、検証の記事だけど、奇しくも目の前のテレビの画面ではTVタックルが同じように小泉政権の5年間について取り上げている。わたしはテレビが嫌いだし、記事を書くときは気が散るので音を切っている。画面下にテロップが流れるのでゲストたちが何を言っているのかおおよそでも見当がつく。なまじ音なんか出ると、姑息なゲストたち(代議士たち)のまるで他人事のように語っている話なんか聞きたくもない。

われわれも劇場型小泉パフォーマンスに騙されて無駄に5年間を棒に振ってしまった感があるが、それにしてもその間、お偉い先生方の保身とも言えるあの沈黙、そこまでして自民党のブランドと代議士の地位が欲しいのか。小泉氏が総裁を辞めるまでの我慢だと辛抱していたとしても、己の主義主張をひっこめて、嵐の通り過ぎるのを待つなんてこんな日和見代議士の集まりなら、自民与党の前途は暗い。

民間会社で言えばワンマン社長の横暴に何も文句も言えず、ただひたすらに会社を首にならないよう保身に回っている安サラリーマンと一緒だ。二代目のバカ息子がオヤジの跡を継いで次期社長となってもゴマすり集団と化してしまうのだろう。なさけない。

自分たちの本当のご主人様が国民であることを忘れている。次期参院選はこんな日和見自民に勝たせるぐらいなら、ちょっと力不足でも民主党や野党に勝たせたい。やはり一党独裁の政権は危険だ。それに自民党の単独暴走に監視の目とブレーキをかける役目を果たすと世間に広言してはばからなかった連立公明党も支持者を裏切って、小泉ベッタリの5年間だった。どこにブレーキをかけた跡かあるのか、信じられない。すり寄りかただけは上達したが。福祉と平和を党のスローガンとしているなんて嘘八百もいいとこだ。

来年の参院選が待ち遠しい。惨敗する与党の姿を見れることを期待しながら。

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posted by ゲゲゲのイチロー at 02:03 | Comment(1) | TrackBack(3) | 政治

2006年08月18日

大衆のこころは

わたしのオヤジが生きているころによく言っていた言葉に「戦争は必要だ。破壊がなければ大きな需要は生まれない」。明治生まれの貧農の小せがれだったオヤジにたいした学もなく、そんなことを口走っていたのは何故なんだろう。どうせ何かの受け売りかもしれないが、亡くなった今となっては、その考えがどこから出てきたのか知るすべもない。

parade-1.gifだが、戦後60年も経った今現在、世界で起こっている破壊(戦争)は常に正義という大義名分のもとで勃発し、それらがみな戦いの終わった後、罹災国の復興支援という美しい言葉で飾られたその裏で、ハイエナ共の絶好の餌場になっている現実をみれば、あながち無学のオヤジのあの言葉も嘘だったとは言えない。

オヤジの言葉を借りれば「大東亜戦争(太平洋戦争)はもっと早い時期にアメリカ本土を叩くべきだった。そうすればアメリカは戦意喪失して、早い時期に停戦に持ち込めたのに。ソ連は不可侵条約を結んでいたからあの時点では交戦してくる可能性はなかったのに」
当時の日本の戦闘能力や輸送能力を考えれば、どだい無茶な床屋談義なのだが、過去に自国が戦場になった経験のない両国双方の素朴な国民感情だったかもしれない。

でも、いまでも戦争をやりたがっている国の国民感情が過去の戦争を教訓とせず、その国の(戦争好きの)為政者に絶大なる支持の声をあげるのは、やはり自分の頭の上に爆弾が落ちてこないからかもしれない(戦争を知らない世代が大多数になっている日本も同様)。

大衆はおろかだ。いつの時代も愛と名誉のために進んで自分の身を投げ出すのに、それによって得られるのは、小さな墓の下に入る道をたどるか、生き延びても、お上発行の名誉だけ。でも多くの庶民はそれが生きていく上のささやかな誇りなのかもしれない。

八月十五日の靖国神社は例年になく大勢の人出だった。それに関してどうこう言う意見は、わたし自身は持たない。ただ終戦のこの日を過去を振り返る記念日とするならば、これから生き続けるわたしたちは、何が幸せの道なのか、ひとりひとりが考える日でもあるのだ。

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posted by ゲゲゲのイチロー at 12:58 | Comment(0) | TrackBack(2) | 社会

2006年08月17日

わたしの夏休み

わたしの長い夏休みも終わりが近づき、以前ほど記事が書けなくなるかも知れない。けれど、ひとさまの記事を拝見するぐらいの時間は確保したいし、出来ればなんとか書き続けたい。

natuyama-3.gif何日間か、下界から離れて夏山に身を置くのもいいものだ。
新聞もない、テレビもない。携帯電話すら持って行かなかったから、毎日の行動は夜明けの蝉の鳴き声ともに目を覚まし、まだ日差しの強くならないうちに今日の予定の尾根を目指す。険しい山に挑むアルピニストとは違い、年相応のハイカーだから山々の美しい緑と胸一杯の空気を満喫できれば充分だ。天候にも恵まれ、同じように山を訪れているハイカーたちとすれ違うときに交わすなごやかな挨拶。
夏の日差しはいつまでも大地を明るく照らす。でも山の天気は変わりやすい。決めた時間は守って帰路に着く。

行きつけの宿舎は近所の村の農家のひとたちが手伝いに来てくれる。日ごろは四季とともに暮らしている人たちだ。いつも母親の後ろについて恥ずかしそうにしていた坊主がいつのまにか立派な高校生だ。夏休みだから手伝いに来てくれた。亡くなった彼の婆ちゃんが可愛い孫のために40分もバスに乗って、町に絵本を買いに行くのだと語ってくれたのは、もう一昔以上も前の話だ。婆ちゃんにすれば久しぶりの町での買い物だから嬉しそうだった。(その本屋も町に一軒しかなかったはずだ。)

夜は宿舎の庭に出て満天の星空を見上げる。
もう都会では絶対に見られない夜空だ。芝の上に仰向けになってこの星たちを眺めていると、むこうのどこかに住んでいる星人たちは、わたしたちのいる地球をなんて思って見ているのかなと想像する。幾百万の星の中の地球の存在なんて知るよしもないだろう。その地球にはびこっている我々人間の存在は、宇宙から見たらさしずめ地球という星に巣食うバイ菌ぐらいの存在かな。
もうすでに鳥たちも、みんな眠りについていて、漆黒の夜景の中に星空だけが明るく輝く。

昔、婆ちゃんが乗ったであろう一日三便のバスで、JRの来ている町まで戻る。小さな駅前にその場に不釣り合いなケバい乗用車と幾人かの若者たちがたむろしていた。お盆休みで都会から帰ってきている村出身の若者たちだろう。本線に出るまでのジーゼル(機関)車の乗客はわたし一人だけだった。

やがて発車の合図とともにケバい現実の生活に向かってジーゼル車は走り出した。

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posted by ゲゲゲのイチロー at 22:42 | Comment(0) | TrackBack(2) | 日記

2006年08月13日

ニューメディア維新到来となるか

既存のマスメディアの在り方が問われている現在、インターネットという新たな通信手段によって、その牙城の一角を崩すべくニューメディアが誕生しようとしている。

「オーマイニュース」。
筆頭株主は。すでに韓国で成功している同名のインターネットニュースサイトではあるが、これに日本のソフトバンクが共同出資し、8月28日の創刊を目指している。市民参加型のメディアを目指すという試みは、すでに「JANJAN]などが先行しているが、その存在にいまいち光るものが感じられず、後発の「オーマイニュース」としてはその轍を踏まない意味でも、実績のある韓国メディアの進出となったのかもしれない。(一介の市民に詳しい事情などわかるはずもない)

shinnbun.gifまだスタートしてもいない新たなメディアの展開を予想するのは新馬の初レースの予想するのに等しく、蓋を開けてみないとわからないというのが本音だ。世間では既存のメディアの限界というか、伝えたくとも伝えられない縛りの中の報道の姿勢が国民の不信を招き、マスメディア離れを生み出している原因ともいえる。

唯、この新しいニュースサイトがどこまで既存のメディアに対抗しようとしているのか、それともまったく別のトラックを走りだそうとしているのか、すべてはそれで未来が決まってしまうような気がする。活字を主とした媒体で既存のプレスに対抗するのであれば、それはペーパーがディスプレイに変わっただけのことであり、すでに産経新聞などが地域限定で試みていることである。

同じことをペーパーで伝えるのと、ネットで伝えるのなら読者はどちらを選ぶか。
それは読者にとって、それぞれのメリットがどちらを上回るかによって決まるのではなかろうか。そのことを考えると同じトラックを走るのはハンディが大き過ぎると思う。既存のメディアの取材特権に対して市民記者がどこまで太刀打ちできるのか、それにかかる時間や経済的負担はと考えていくと前途は決して楽でないはずだ。

即攻性のある既存に対して、もし別の道を選ぶのならそれは中身の濃い持続性のある道を選ぶべきであり、センセーショナルな意味での鮮度は落ちるかも知れないが、本当に真実を知りたい読者の期待に充分応えられるのではないだろうか。
期待倒れで終わらないことを切に望む。

今回の話と直接関係ないのだがインターネットが一般に普及し始めた当時わたしは個人的な意見として、そう遠くない将来、新聞のインターネット配信が来るとプレスの連中に広言していたのだが、そんな想像のつかない話は実感がわかないというのがみんなの反応だった
わたしの意見の根拠となるのはあくまでも経営者側からの視点であり、新聞に係わる彼らの末路を語ることでもあったので多くは語らなかった。
でもそれが実現すれば現場の設備投資を含む物的コストの削減はもとより、それに伴う人件費の削減というメリットは経営者にとって魅力だったはずだ。新聞に占めるコストの大半は宅配というコストと印刷に伴うコストである。もしネット配信が可能となればその二つの要因が一挙に片づく。購読者にとっても、全国一律の早さで最終版を目にすることが出来るというメリットがある。その影にはそれに携わっていた人たちの失職という犠牲も伴うのだが。

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posted by ゲゲゲのイチロー at 03:26 | Comment(2) | TrackBack(16) | ニューメディア

2006年08月11日

子どもの視線から(裸の王様は誰だ)

sennsou.gif先日、予約していた(予約はかなりずらしていたつもりなんだけど)4冊同時に到着して、とりあえずは一番読みやすい本から。

「戦争のつくりかた」著者名 りぼん・ぷろじぇくと 発行所 マガジンハウス
わずか50ページにも満たない小さな本です。
初版は2004年7月です。
第二次湾岸戦争の翌年です。

子どもたちにもわかるように挿絵入りで書いてあります。
ページ下には英訳も書かれてあります。

予告ともいえるこの本の発行された後の今現在、憲法改正以外、書かれてあるほとんどの法案が、国民のさほど関心を呼ばないうちに国会を通過し法制化されていきました。もしこれが単なる予告の絵本でないとしたら、日本は最後の文25ページに向かっていくのでしょう。

後半、黄色いページにはこの絵本は大勢の人たちが集まって作っていったいきさつが書いてあります。
そして書かれてあることがどんなに身近に起こっていることなのか、国は少しづつ、みんなに意識されないうちに法律を変えていっています。その怖さを絵本は語っています。
いままで日本がかかわった過去の戦争も、いきなり始まったのではありません。
国民の生活の中にしみ込むように静かに、いつのまにか導かれるのです。だから怖いのです。

黄色いページ最後のところに本の内容と実際に関連のある法律や条文などが掲載されています。子どものための絵本ということだけではなくわたしたち大人のための絵本でもあるわけです。
機会があれば一度、目を通すことをお勧めします。         

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posted by ゲゲゲのイチロー at 23:58 | Comment(0) | TrackBack(1) | 社会

現代若者考

歳をとると四、五年、いや十年ぐらい前のことでもつい、昨日のことのように語ってしまうことがある。
今まで生きてきた長さからいえば当然かもしれないが、若い人からみれば十年前の話なんて大昔の話を聞かされている思いだろう。
だから若い人にとっての一年、二年は目まぐるしく変わる世の中で自分たちの貴重な過去であり、それが年寄りの十年に匹敵するのだと思う。

若い人たちの過去は、年寄りにとって過去とは言えない今のことであり、本当の過去を知らない若い人たちの未来は年寄りたちにとって一抹の不安を抱かせる。それはこれから向かう未来は、あなたたち自身の手で切り開いていかなければならないからだ。若さもある、勢いもある、がむしゃらに進む勇気もある。だからちょっと足を停めて、いや停めなくていい。歩みながらでもいい。話を聞いて欲しい。

わたしたちが語る十年は、あなたたちなら一年で習得できる。人生の先輩として生きて来て、決して納得の出来る生き方だったとはいえない。だからこそ伝えておきたいのだ。よかったことも悪かったことも・

刹那的に生きるな。未来に悲観するな。嘆く前に自分のみちは自分で切り開け。
あなたたちが望むなら、喜んで山道を背負われもしよう。帰り道は迷わないように小枝を折ってやるぐらいの親心は失っていない。
だって可愛い、わたしたちの子どもの未来への道だから。

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posted by ゲゲゲのイチロー at 21:27 | Comment(1) | TrackBack(2) | 社会

2006年08月08日

61年目の広島にて(その2)

hiroshima.gif夏休みも残り半分となり子どもたち相手に、早く学校が始まらないかと首を長くしてその日を待っているお母さんたちに対して、もっと長ければいいのにと思っているお父さんたち。通勤ラッシュの無い、つかの間の快適な時期でもあるからだ。
きのう、ひょんなことからYou tubeのサイトにたどり着いた。以前から個人のブログに貼り付けているのを見かけることがあって、興味はあった。ちょっとした探しものは便利。時と場合によってはこういうサイトももっと普及しても良いと思った。


おとといは半分、義務のような気持ちで記事を書いたのだけど、正直いって書きたくない。どんなに書き尽くしても起きてしまった悲惨さの何万分の一にも及ばない。書けば書くほど安っぽい反戦ブログになるような気がして避けていた。
わたしの母方は、生粋の広島人で呉に嫁いだ母と広島市外にあった分家が一軒助かっただけ。本家を始め、たくさんあった親戚もすべて全滅。だから母の身内はいつも心の中の思い出だけ。子どものころに枕元で、昔を思い出しながらポツリポツリと語ってくれた、母が子どものころの広島の話。何十回も聞かされたけれど、それを語っているときの嬉しそうな母が好きだった。


6日の記事にトラックバックして頂いた中にこんなのがあった。
「・・・・・展示を僕の近くで見ていたおばさんたちがこんなことをいっているのを聞いてしまいました。『普通の火事でもこのくらいになるわよね〜』・・・・・」
書かれた方が原爆資料館で館内を見学していたときの話です。
そうなのです。どんなに飾り付けていても60余年の年月は戦争を知らない人たちにとって、歴史博物館で石器時代の石オノを見るのと同じインパクトなのです。

それはもう、わたしの母のように生き残られた方たちの思い出としてしか残り続けることが出来ないのでしょうか。
わたしは戦争をにくみます。


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posted by ゲゲゲのイチロー at 19:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | ローカル(社会)

2006年08月06日

61年目の広島にて

毎年、8月6日になると日本中の平和運動家が広島に集って式典に参加する。今年の式典参加者は4万5千人、それが多いのか少ないのか広島の街は被爆都市として,それにかかわる人たちで行事一色となる。

明日になると昨日のことがまるで嘘のように街は静けさを取り戻し、人々は職場へと道を急ぐ。8.6.gif

 今朝の平和記念式典の各テレビの対応を見てみた。
NHKは全国同じ、午前8時から35分間、式典中継。
RCC(毎日系)、午前8時から30分間、式典中継。
ホーム(朝日系)午前7時59分から31分間、式典中継。
TSS(フジ系)午前7時59分から56分間、式典中継。
HTV(日テレ系)7時59分から61分間、式典中継。
多少の時間差はあっても地元故、ほとんど横並び。ただHTVだけは、この日の大半を原爆特集番組に時間を割いて他局に抜きんでていた。

 次に全国では、その頃何を放送していたか。まず東京から。
日テレ(読売系)午前8時からのワイド番組「THEテレビ」
TBS(毎日系)午前8時からのワイド番組「サンデーモーニング」
フジ(産経系)午前7時30分からワイド番組「報道2001」
テレ朝(朝日系)午前8時から「仮面ライダー」
テレビ東京 午前8時から「ポケモンサンデー」
大阪、福岡も同じだった。

 今日は日曜日ということもあって、いつもの放送スケジュールと違い、一概に例年と比較出来ないが、61年も経つと盛り上がっているのは地元だけという(各地で参加されている方ごめんなさい)、これが平和運動の現状でもありマスコミの対応なのだ。唯、リベラルと見られている朝日系列がこの時間に「仮面ライダー」とはおそれいった。しょせんテレビは視聴率オンリーなのか。他の民放キー局も報道ワイド番組と銘打っていても、内容は視聴者の関心を引く話題満載で、地味な平和運動なんかこの程度の扱いだろう。

 わたしが携わっていた70年代から80年にかけては世の中をもっと真剣に直視していたし、各マスメディアも条件の悪い中を使命を持って伝えていたのに、飽食の時代によってサラリーマン化してしまったのか。

 これはだれも責められない。わたしを含め日本中の人々がバブルに浮かれて、いまだに過去の幻想を夢見ている。平和は快楽や飽食ではない。地みちに堅実に積み上げていかなければならないものなのだ。

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posted by ゲゲゲのイチロー at 22:15 | Comment(4) | TrackBack(25) | 社会

2006年08月04日

羊の群れのように

言葉ととか、その他いろんな手段を使って人は自分の気持ちを伝えていくのだけど、それがうまく伝わらない。それは表現能力の未熟さが大きく影響していると思う。言い換えれば、いままで日本人はそういう環境におかれていなかったことにすべての原因があると思う。

hituji.gif近代日本になって、全国津々浦々まで義務教育という国策として始まっった歴史ではあっても、そのおかげで世界の何処よりも文盲率の低さは誇れたし、日常生活に支障がない程度の知識や計算能力は皆身につけていった。しかし、それは国家として先進国に追いつくための国策でもあったし、生産性をあげるための教育、国家に忠実性を求めるための教育でもあったはずだ。戦後、占領軍によって根本から見直しを求められて新しい日本を再構築するための教育に改められたけれども、それが正の部分と負の部分をひこずって今日まで来ている。

近年において明治維新、第二次世界大戦敗戦という二度にわたって国家としての変革を求められる歴史的岐路があった。それらが後の文明の躍進に大きく影響したことは認めるが、それに伴って歩み続けなければならないはずの過去の文化を、いずれもそれを放棄している。いや否定している。いとも簡単に。

舶来信奉の国民性は良く言えば従順。政治家も評論家も。最近聞かなくなったが評論家の二言目には「欧米では・・・」と例え話を引き合いに出す。何でも欧米が正しいのか、己独自の考えはないのか。いさぎよいのか、馬鹿なのか。古き価値観を捨てる勇気があるのなら、いや新しい価値観を受け入れる従順さがあるのなら、なぜもっと自分自身でものを考えることをしないのか。自分自身の意見をまとめることが出来ないのか。またそれをみんなに伝えられないのか。

わたしが仕事を通じて学校に出入りしていたときに、一番に感じられたのは、子どもたちの表現能力の乏しいことだった。まわりからはみ出さない。人と異なる考えを持たない。いや持たないのではなく、何も考えていないのだ。だから羊の群れのように先頭が右に曲がれば右に、左にゆけば左に行く。学校はカリキュラムどおり知識を伝授する場に徹している。異端児は認めない。異端教師もいない。いてはいけないのだ.

以前に書いた野外活動で、他のクラスとは違う生徒の自主性を尊重し、オリジナルのプログラムで活動しているクラスがあった。わたしにはその指導している教師に好感が持てた。生徒たちも生き生きしてた。数年経って、またその学校が担当になった。あのときの教師を捜した。みつからない、転勤したのか。やがて気がついた。大勢の教師の中に彼がいた。目立たない地味な存在で。あまりにもの変わりように声をかけてみた。「いや〜、したくても出来ないんですよ。上から注意がありました」照れ笑いしながら語ってくれた表情の中に、彼の挫折感を感じた。

いま日本は過去に経験をしたことのない国際社会の荒波の中に立たされています。それを乗り越えていく英知が求められています。それを担うのは、思考回路の硬直化した老為政者たちではなく、次世代のひとたちです。

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posted by ゲゲゲのイチロー at 18:50 | Comment(2) | TrackBack(3) | 社会

2006年08月03日

暗い未来は誰のもの

月も変わったし、新しいネタで何か書こうと思っていたのだけれど、31日夜書いた「偽装請負い」の記事が想像以上に反響が大きくて、わたしのようなマイナーなブログでほとんどリンク先もないのに2日間でアクセス数が2千件を超えてしまった。

人気ブログの方たちにとって「なあんだそんなこと」と笑われしまうかもしれないが、検索サイトから来ているケースも平日と比べると数倍も多くなっている。ブログの年齢別利用者の割合を考えると、いかに若年層がこの問題にたいして関心が高いか数字が物語っている。

takenaka-&koizumi.gifもともと、わたしの記事は二十年以上も前にわたしのまわりで起こったことを書いたので、いまの「偽装請負い」とは内容が違う。それでも当時はこの不公平な処遇に対して憤りを感じたし、今回もこのような形でまだ大企業が人を使っているのをみて若い人たちが将来に夢を描けなくなる気持ちがわかるような気がした。

マスコミや政府の上面だけの景気回復宣言は、一部の大企業だけの成果が、こういう隠された犠牲の上に成り立っていることを改めて思い知らされた。わたしの仕事の関係上、不特定多数の、それも幅広い年齢層のビジネスマンから「本当に景気は回復したのだろうか。実感がわかない」という疑問の声を聞くにつけ、今回のニュースは日本の所得格差が二極化している現実の深刻さを感じさせた。

新自由主義という舶来信奉の為政者が導いてくれた経済政策は、手本となるアメリカの富と貧困の道をたどっているだけかもしれない。老いていくわたしにとって貧しさは戦後のあの苦しさを振り返ればなんら苦痛ではないけれど、これから未来に生きていく若者になんと言って声をかけてやればよいのだろうか。

梅雨明けの残り雨の中で野党の宣伝カーの声だけが闇の街にうつろにこだました。

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posted by ゲゲゲのイチロー at 05:13 | Comment(0) | TrackBack(4) | 社会

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