石橋を叩いても渡らないかも?

2006年05月19日

年老いた猫

基本的に、群れることは好きでない。スポーツも団体競技は鑑賞するが、いままで自分が好んでやってきたスポーツはいずれも個人競技だ。動物に例えると犬よりも猫に近いと自分自身勝手に思っている。
この間ラジオ聞いてたら、深夜に猫族会議(ノラ、飼い猫問わず参加自由)が人知れず開かれているという。猫の行動を研究するグループのコメントだが信憑性はどうであれ、ブロガーのコミニュケーションみたいで面白い。
まあ、猫科のわたしでも長年生息していると、自分なりのポリシーみたいなものが出来てきて、それが色んな判断を迫られる状況に置かれたときの振り分けの基準となる。

おそらく日常生活で日本で一番たくさん「平和」という言葉を目にし、siryoukann.gif耳で聞く環境にいる「広島の自分」は何処の団体にも属さず、かと言って決して無関心ではなく、自分なりの結論を求めて今日まで生きながらえているのだが、「平和」もバーゲンみたいにテンコ盛りで毎日々々聞かされるとうんざりしてしまう。
職業がら市内の観光ガイドみたいなことを仰せつかって、何度か広島に来られた方をご案内したことがあったが、原爆資料館まで来ると入口までご案内し、わたしは入らない。
ひとつには私自身が怖がりで、過去に二回だけ観たことがあるが、最初は昭和30年の開館したばかりのときで、無造作に陳列してある遺品が妙にオドロオドロして、幼いわたしにはお化け屋敷よりも怖くて二度と行こうとは思わなかった。それから数十年、先程いったように業務命令のようなかたちで市内をご案内する任務を受けたとき、下見として二度目の来館となった。展示会場の広さにはさほど変化はなかったが、見違えるような現代のビジュアルデザインの粋を凝らして、訪れる方たちに、より理解して頂くよう、リニューアルされた館内に驚いてしまった。
あの素人っぽい無造作な展示の資料館のときの怖さはないことが、改めて年月が経ったことを窺わせ(わたしも大人になった)、それがわたしを再び資料館の入口をくぐらせない理由でもある。

わたしの「平和」という言葉の定義づけは「他の人を思いやる心」である。これは百万遍の平和スローガンよりも、より平和に近いと思う。




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posted by ゲゲゲのイチロー at 19:11 | Comment(2) | TrackBack(1) | 日記

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